独りで逝くことの肯定を~日本的人生観への回帰
【孤独の悲観的な印象を変える必要】
http://hamusoku.com/archives/1xxx-xxx-xxxxx.html
方丈記にしろ徒然草にしろ、日本人の人生観には「孤独は孤独として受け容れる」ものがあった。
孤独を悲劇的なものとして、もしくは悪いものとして、社会に刷り込んでいくことは、「孤独への恐怖」をひとに植え付ける。
さて、谷本被告は孤独な自分の人生への終焉に、なぜ他人を道連れにしたのか?
家族をなくし、職をなくした彼は、孤独だったろう。
彼は、孤独なままに生きて、孤独なままに死んでいくことをしなかった。
社会支援を含めた活動をしている医療機関で、彼は孤独を癒されただろう。熱心な担当医は彼に付き添い、受付を含む職員もまた彼に親身になっただろう。彼と同様に通院するひとたちは、社会に復帰を果たすひとも多かっただろう。
彼は、そこに安らぎ以外の何を見出しただろうか?
将来への希望をもって、社会に復帰していくひとたち。
熱心にやる気に満ちた職員。
意欲をもって、彼に親身に接する担当医。
彼にとって、眩しく輝くひとたち。
それは、彼により深く孤独を、より深い将来への悲観をもたらしたかもしれない。
このまま、この人たちと死んでしまえたら…。
幸福な人生を生きているメディアは、この事件を「犯人は恨み,憎悪,怨恨を動機にしたのだろう。その怨恨はなにか?」という視点で探っている。しかし、彼は「いま、ここにいる状況を、そのまま固定して死にたい」と思ったのではないか。彼に優しいひとたちと共にこの世を去りたかったのではないか。
若い患者たちや、家族のいる患者たちは、彼と同様の医療機関に通いながらも、社会に復帰していく。
61歳の容疑者は、家族もなく、前科があり社会復帰する道筋も困難だったろう。
熱心で優しい担当医は、彼にだけ優しいわけではなく、その他のひとたちにも同様に優しく、同様に診療時間を割いていく。
彼の時間だけが進まずに停まっているーそして、社会は常に進んでいく。
谷本容疑者と同様のひとたちは、社会に少なくない。
彼らに必要なのは、癒しと支えというのは正しいだろう。だが、それだけだろうか?
いま自分を支えてくれるひとたちも、いずれ去っていくことを彼らは知っている。一人で立つことができたときに、彼らは独りになる。
ならば、「独りでいることの肯定」「独りで逝くことの肯定」が社会に必要なのではないか。
孤独死を悪とし、孤独死を社会問題とし、孤独を解決しなければならない問題として提起しつづける。これと並行して、「ひとは孤独であること」「孤独は善でも悪でもなく心持であること」という人生観,価値観へと回帰する必要がある。
コロナ禍で、かりそめの同調は崩れ去った。コロナ禍によって、孤独という状態は人生の常であることを知った。
だからこそ、「孤独とは善でもなく悪でもなくー解決すべき問題ではなくー心の状態なのだ」という日本人の人生観をもういちど思い起こし、回帰していこう。