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テーマ:日本の歴史(1064)
カテゴリ:古代史が好きで悪いかっ!
3月29日(土)甘樫丘東麓遺跡の「現地見学会」がありました。 ここ甘樫丘東麓遺跡 に初めて訪れたのは、昨年のGW。 しかしその時は、遺跡は跡形もなく埋め戻されていて、 実を言うと、そこが本当に甘樫丘東麓遺跡かどうかもわかりませんでした。 あんまり悔しかったので
今回はバッチリ。 新たな発見のNEWSと、「現地見学会」の新聞記事を見逃しませんでした。 今回の明日香訪問は、この「現地見学会」参加が目的だったのです。
前回私が「ここが甘樫丘東麓遺跡だ」とにらんだ場所に間違いありませんでした。
「ちくしょー。この下に甘樫丘東麓遺跡があるはずなのに」
涙を飲んで歩いた更地は、やはり甘樫丘東麓遺跡だったのです。 「現地見学会」の予定は13時からの予定でしたが、 12時15分頃にはもう始まっていました。 ちなみに「現地説明会」ではなく、「現地見学会」です。 人が集まった場所で、複数のスタッフが随時簡単な説明を行うという形式でした。
今回の調査の主な目的は、甘樫丘東麓遺跡の時代の特定だったそうです。 何度か整地されて、造営と破壊が繰り返されていることが判明しました。 最も古いものは7世紀中頃には廃絶したことが確認されたそうです。 7世紀中頃と言えば、そう!!
645年の「乙巳の変(大化改新)」
日本書紀・皇極天皇記3年11月の条にこう記されています。
「蘇我大臣蝦夷(そがのおおおみえみし)と子の入鹿は、家を甘橿岡に並べて建てた。 大臣の家を上の宮門(みかど)と呼び、入鹿の家を谷(はざま)の宮門といった」
すなわち甘樫丘東麓遺跡は、この「谷の宮門」 蘇我入鹿の邸宅に関連があると考えられるのです。 今回見つかった建物跡のうち、7世紀中頃に廃絶が確認されたものは3つ。 全て「総柱建物」という、倉庫によく見られる特長を備えています。 新聞記事などには「兵器庫」との記述もありましたが、 蘇我氏滅亡前の、日本書紀に書かれた記述からの憶測でしょう。 人の居宅ではなく倉庫らしい、と言うだけで兵器庫と特定されたわけではないようです。
前回の調査は、この画像の一番手前の溝あたりまで。 そこから奥の山側が今回の発掘調査場所です。 画像に写っているお姉さんに質問して確認しました。 前回の調査後、やはり丁寧に埋め戻したとのこと。
しかしまだ、肝心の邸宅らしきものが発見されていません。 上の画像の先は山(甘樫丘)の斜面であり、何も見つからないだろうとのこと。 怪しいのは谷側に広がる一帯だそうです。
ここは農家のミカン畑。 前回も調査したかったそうですが、 「ミカンの木を1本も傷つけてはダメ」 との条件を出されて、断念したそうです。
現場からは、7世紀の土器が多数出土しています。 この甘樫丘東麓遺跡の調査は、引き続き行われるそうです。 蘇我入鹿の邸宅や、続いて蘇我蝦夷の邸宅が見つかる日も そう遠くないかも知れませんね。 この遺跡のちょうど上に、甘樫丘・川原展望台に登る道があります。 時々チェックすれば、発掘の様子が上から見学出来るかも知れません。 早く見つかって欲しいものです。
そしてもうひとつ。 古代史ファンにとっては驚きの感動がありました。 場所はここ。
道路建設によって、以前に一部破壊されている雷丘(いかづちのおか)。 木が生い茂り、荒れ果てた感じの小山だったと記憶していますが なんときれいに整備されているではありませんか。 3階建ての家ほどの高さしかありませんが、 ここから眺める明日香の里は、格別な思いがあります。
重要な遺跡があると言うわけではありませんが、 何かと古代の文献にその名が登場するこの丘。 古代史ファンにとって、おなじみの場所ではないでしょうか。
明日香村に来ても、今さら亀岩や石舞台を見る必要もないので こんなマニアックな散策が出来ます。
次回はもっとマニアック。 pleの でもヤバイかなぁ~ 書かない方がいいかなぁ・・・
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