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テーマ:猫のいる生活(136079)
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この子たち園芸を遣る人から見たら、枝や幹の中を食害するので目のカタキにされるのですが、なかなかに可愛いご面相。 ど~云うワケがこんな埋立地なのにときどき見かけるんですよね。 一番最初に開通したのは申すまでも無く東海道新幹線です。 これは昭和39年(1964年)の開通。 当時、最も速い運行速度を誇った鉄道です。 昭和39年と云えば終戦からわずか19年です。 日本は戦争で焼け野が原になりましたね。 そこから20年足らずで最新鋭の新幹線を開通させたのです。 実は新幹線の開通の裏には戦前の驚嘆すべき計画が伏せんとしてあったのです。 朝鮮半島、中国大陸への輸送需要の急増のためです。 昭和7年に満州国が成立しました。 東海道本線、山陽本線が超過密状態になったのは、鉄道で下関まで行き、そこから関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山に上陸。 さらに朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)、南満州鉄道(満鉄)を利用して中国内陸部に入っていってたためです。 そこで昭和14年(1939年)から「弾丸列車計画」が実施の運びとなったのです。 東海道本線、山陽本線とは別に広軌道のこれまでにない高速鉄道を走らせると云うものだったのです。 建設計画では、時速200km 、軌間(レールの間隔)1,435mm 、車輛の長さ25m 、ホームの長さは500m 、1日に片道42本の旅客列車を走らせる予定でした。 これらの数値は、新幹線が開業したときと非常によく似ています。 東京~大阪間を約4時間、東京~下関間を約9時間で結ぶこの弾丸列車、設置が考えられていた旅客駅は東京、横浜、小田原、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、小郡、下関の18駅。 しかも「対馬海峡に海底トンネル」を掘削し、満州国の首都新京(現 長春)や中華民国の北京までの直通列車を走らせる計画まで発展していったのです。 それどころではありません。日本軍がシンガポールを獲得すると、そこまでの延長も画策され、さらにインドやラオスへの鉄道敷設まで構想されたのです。 これの究極の発展型が「中央アジア横断鉄道計画」。 なんと中国大陸からカシュガル、カーブル、テヘラン、バグダード、トルコまで延伸して、最終駅はドイツのベルリンと云う路線まで計画されたのです。 この計画をすすめるにあたって、鉄道省は当時の最先端技術である「電車」での運行を計画していましたが、電車だと発電所が爆撃されればイッパツで運行できなくなると軍部の猛反発をくらい、結局 蒸気機関車での運行をよぎなくされました。 蒸気機関車で時速150km 以上のスピードを出すとなると、かなり大型の動輪が必要になります。 そこで、弾丸列車計画では動輪の直径を2m30cm にする予定でした。 有名な列車D51の動輪が1m40cm なので、それより1m 近くも上回ることになります。 当時、世界最大級の列車は既に日本の手によって走らせていました。 満州鉄道の「あじあ号」です。 川崎重工製で大連~長春を走っていた「あじあ号」をけん引してたのがパシナ型機関車(戦後、中国名「勝利7型」とつけられました)です。 この蒸気機関車の動輪が2m 。 と云うことは弾丸列車計画の蒸気機関車がいかに巨大だったのか、むしろ怪物と呼んでもオカシクない代物だったのです。 結局、戦局が悪化したため、昭和18年(1943年)をもって工事は中断されてしまいました。 「中央アジア横断鉄道計画」は映画「戦場にかける橋」で有名になった「泰緬鉄道」にかろうじて面影が残っているだけです。 しかし日本坂トンネルについては工事が継続され、完成後は東海道本線のトンネルとして転用されました。 これが後に東海道新幹線のトンネルとして転用されるのです。 また、新丹那トンネル、東山トンネルの工事は進んでおり、用地買収も多くが完了していたため、戦後の東海道新幹線建設計画において活用されることになったのです。 あしたはモデルになった満州鉄道の「あじあ号」について。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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