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テーマ:猫のいる生活(136088)
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1958年と云えば昭和33年、日清食品が世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を発売した年です。
この年にスカンジナビア航空が主催した「世界早回り」に挑戦した日本人がいました。 女性です。 名前は"兼高かおる"。 そして彼女は当時、世界最速の73時間9分35秒の新記録を樹立してしまったのです。 兼高は初めて南極点に立った一般女性の1人でもあります。 この兼高の世界一周よりはるかに昔、1873年に出版された世界一周の冒険小説がありますね。 作者はジュール・ヴェルヌ、小説のタイトルは「八十日間世界一周」。 後期ビクトリア朝にイギリス人資産家フィリアス・フォッグが執事のジャン・パスパルトゥーを従えて、世界を80日間で一周しようと試みる物語です。 当時はトーマス・クック主催による世界一周ツアーの第1回目が行われている最中であり、ヴェルヌはこれに刺激されて小説を書いたそうです。 1909年になって、やっと世界初の航空会社DELAGがドイツに設立され、ツェッペリン飛行船の運航を開始しました。 ライト兄弟の「ライトフライヤー号」による世界初の有人飛行が行われたのが1903年。 なので「八十日間世界一周」が書かれたときに航空会社はなく、物語では船、自動車、機関車、気球などを駆使しての世界一周でした。 最初の定期商業航空会社がアメリカにできたのは1914年の「セントピーターズバーグ - タンパ・エアボート・ライン」まで待たなければなりません。 1919年にはBA(英国航空)の前身となる「ハンドリー・ページ・トランスポート」がイギリスで創設されました。 この航空会社が世界初の機内食を提供した会社で、サンドイッチとフルーツがサービスされました。 と、云うワケで、航空会社もない1889年に世界一周を80日間でやろうとした女性がいました。 "ネリー・ブライ"、新聞記者です。 彼女は勤めていた新聞社「ニューヨーク・ワールド」のために世界一周を試みたのです。 なんと彼女は世界一周の旅を72日間で成し遂げてみせました。 途中フランス滞在時に「八十日間世界一周」の作者ヴェルヌの自宅を訪れています。 彼女が幼いころ父親が亡くなり、母親が再婚した相手は大酒飲みな上に家庭内暴力をふるうダメ男でした。 それで離婚に至ったのですが、離婚後に母親とブライは工業都市ピッツバーグへ移り住んだのですね。 この地でブライは厨房の手伝いから、家政婦、家庭教師などで家計を助け続けました。 ピッツバーグは新聞産業も盛んで、複数の日刊紙が発行されていたのですが、そのうちの「ピッツバーグ・ディスパッチ」に掲載されてた社説にある日こんなことが記されてたのです。 「一部の女性の間で職業に就く動きがあることは嘆かわしい、これによって女性が家庭から離れることは女性の使命を忘れさせて社会組織を破壊することだ、女性の本分は家庭である」と。 それを読んだブライは、編集長あてに「女性も男性と同じだけの知性も能力もあること、アメリカでは市民の持つ才能を求めていること、女性もこの世界において進出し正しい地位を獲得すべきである」と手紙を書いたのですね。 それを読んだ編集長は、ディスパッチ紙に新しい風をおこすのでは?と面会を求めたのです。 ブライは会社を訪れ編集長と対面しました。 そうしてブライは正社員となり、女性記者の生活をスタートさせました。 1885年のことです。 ブライの名を世間に知らしめたのは世界一周旅行よりずっと前からおこなってた「潜入取材」においてです。 当時、ジャーナリストが潜入取材をするのは男性記者でもやってませんでした。 彼女こそ潜入取材の開拓者だったのですね。 彼女が最初に潜入取材を行ったのは、ニューヨークのイースト川ブラックウェル島(現在のルーズベルト島)にあるニューヨーク市立精神病院への潜入です。 このころ彼女は「ニューヨーク・ワールド」紙に職を得てました。 ニューヨーク・ワールド紙の編集長が「精神を病んだふりをしてニューヨーク市立精神病院に入院し、女性病棟の現状を暴露する記事を書く」よう命じたのです。 「どうやって退院させてくれるのですか?」編集長は「まずは中に入ることだ」。 ブライは「ネリー・ブラウン」という名のキューバ系移民を装って市内の宿泊所を訪れ、所内をさまよい歩き、暴言を吐き、奇声を発しました。 当時、貧困と疲労によって精神を病むキューバからの女性移民がおり、その結果、キューバの女性は精神を病みやすいという噂が流れていたからです。 警察が呼ばれ、医師は彼女を「精神障害者」と認定。 裁判官は彼女をベルビュー病院の精神科病棟に入院させ、最初の診断が確定したところでブラックウェル島の病棟に移したのです。 ブライはすぐに、この病院が精神疾患をもつ女性だけでなく、健康な女性も収容されていることに気づきました。 アメリカに来たばかりで英語ができなくて意思疎通ができない移民の女性や、単に貧しくて身寄りがないという理由で収容されてる女性もいました。 かつ1,000人が収容できるこの病院には、1,600人もの患者が収容されていたのですが、医師はわずか16人、そして訓練されていない粗暴なスタッフしか居ませんでした。 朝は全員で散歩、その後は部屋で一日中座った状態で過ごさせ、他の人と話したり姿勢を変えたりすることは許されませんでした。 食事は満足に与えられず、看護師による患者への折檻が絶えなかった。 週に一度水風呂に入り、そこでは頭から冷水をバケツでかけられたのです。 さらに悪いことに、入院患者は病気でないことを証明する機会が与えられていなかったのです。 「ここに収容された女性たちの状況を、犯罪者と比較してみてください。犯罪者には、無実を証明するための機会が与えられています」と彼女は書いています。 10日後、新聞社の弁護士による交渉の結果、ブライは退院しました。 1887年10月「ニューヨーク・ワールド」は彼女の体験談を2部構成で発表したのです。 記事は世間に衝撃を与え、大陪審による調査が行われました。 ブライも証言台に立ち、ブラックウェル島への視察にも同行しました。 そうして精神病院の予算は増額され、患者の環境は改善されたのです。 ブライの記事は全米に広がり、話題を呼んで、たちまち彼女を一躍スターに乗しあげました。 この記事は後に「精神病院での10日間」と題して出版もされました。 それ以来、ニューヨーク・ワールド紙は彼女を表看板に、乳児の人身販売や低賃金で箱工場で働く女性労働者など次々に暴露記事を載せるようになって、読者を増やしていったのです。 ブライが世界一周をはたしたら、たちまち時の人となり、作家ジュール・ヴェルヌも祝福の言葉を送りました。 ブライの名を冠した競走馬や列車、ミュージカルの曲ができれば、グッズも登場し、ネリー・ブライ帽子、ネリー・ブライドレス、ネリー・ブライノートなどが販売されました。 中でもルーレットを回してブライの旅程に沿ってコマを進めるボードゲーム「ネリー・ブライと世界一周」が大人気になったのです。 1890年ニューヨークの住居を引き払って、ホワイトプレインズの農家を借りて母と住むようになりました。 世界一周旅行から1年で人気は影を潜めました。 そして1922年、肺炎にかかって病院に運ばれ、57歳で死去したのです。 彼女の死から数十年の間に、ジャーナリズムと報道は大きく様変わりしました。 ブライの粘り強さと先駆性が、ニュースとそれを報道する人々に新たなフロンティアを切り開いたのですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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