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テーマ:猫のいる生活(136087)
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20世紀初頭にウィーンの重要な文化育成保護に貢献した女性がいました。
このアデーレ・ブロッホ=バウアーと云う女性は、時代を先取りし女性参政権を熱心に支持するとともに、自ら教育を受けて文化サロンの主催者となった人です。 彼女の父親はユダヤ人でオーストリア最大の銀行の一つを経営していました。 アデーレは、1899年に同じユダヤ系の製糖工場の所有主フェルディナント・ブロッホと結婚した典型な富裕層の人です。 しかし彼女は病がちで、特に偏頭痛に苦しめられていました。 またヘビースモーカーでもあったのですね。 そして、アデーレは1925年に髄膜炎で、わずか43歳の短い人生を終えたのです。 生前の彼女は特に古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループ「ウィーン分離派」の芸術家たちを支援してましたが、中でも初代会長だったグスタフ・クリムトとはお互いに親友であり、パトロンでもありました。 クリムトの作風見て何か感じられません? クリムト作品の基調あるいは細部の随所に顕著なジャポニズムが垣間見れることを。 彼は日本の甲冑や能面などの美術工芸品を集めていて、作品に琳派の影響が色濃くでているのですね。 そんなクリムトが自分のモデルではなく、普通の女性を描いたのがアデーレだったのです。 アデーレ・ブロッホ=バウアーはクリムトが唯一 普通の女性を描いた人物だったのですね。 この「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像(黄金のアデーレ」は、今ではウィーンのユーゲント・シュティール(世紀末芸術)を代表する芸術作品の1つとして知られています。 クリムトがアデーレを描いた絵画は1907に完成した「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」と1912年に完成した「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ」の2点があります。 2点の作品のうち「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」が後に数奇な運命を辿るのですね。 クリムトはこの絵の完成に3年もの月日をかけました。 アデーレは、この作品をオーストリア・ギャラリーに寄贈するよう遺言して亡くなりました。 ところが1938年にナチスがオーストリアを併合したため、寡夫となったフェルディナントはスイスに亡命してしまったのですね。 オーストリアに残されたフェルディナント資産はナチスに没収されてしまったのですが、同時にナチスは「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」も没収してしまったのです。 作品は第2次大戦後の1945年にフェルディナントの元に返還されました。 フェルディナントは亡くなる前、遺言で資産の相続人として甥や姪を指名しました。 その中に「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」の相続を指名されたアデーレの姪マリア・アルトマンがいました。 ところが彼女はナチスによるオーストリア併合時、ウィーンを出てイギリス経由でニューヨークに定住してたのです。 しかしフェルディナント亡き後も、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」は依然としてオーストリアに残されたままだったのです。 その理由と云うのがオーストリア政府によれば、絵が同国内にあるのはアデーレの遺言によるものだと主張したのですね。 このことでアメリカとオーストリアの間で長らく法廷闘争が繰り広げられました。 最終的にマリアとオーストリアは、オーストリア人3人からなる委員会による仲裁に同意しました。 2006年、仲裁委員会はオーストリアがアルトマンと他の家族相続人に美術品を返還する法的義務があるとの裁定を下し、同年にオーストリアは絵画を返還したのです。 マリアにはクリムトの絵5点(そのうちの1つが「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅰ」)が返却されました。 同年「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅰ」は、当時としては史上最高値の156億円で、当時のエスティ・ローダー社長ロナルド・ローダーに売却されました。 ローダーは自身が駐オーストリア米国大使だったころからナチスによる略奪問題に取り組んでおり、「ユダヤ人損害賠償世界機構」の一員でもありました。 クリントン政権時代にはナチスの略奪事件査問委員会にも属していたのです。 その後ニューヨーク5番街にある20世紀初頭のドイツとオーストリアのアートとデザインの美術館「ノイエ ギャラリー ニューヨーク」に収集され展示されてます。 この一連のマリアによる訴訟は映画になってます。 2015年のサイモン・カーティス監督作品「失われた日々」。 2006年の映画「クィーン」でアカデミー主演女優賞を受賞したヘレン・ミレンがマリア・アルトマン役をやった映画です。 この映画は単なる法廷作品と云うより、戦争が遺したものを主題に描いた映画です。 ナチスによる美術品強奪と共に、家族は軟禁状態になり、最後のチャンスにかけて命がけでマリアは亡命したのですね。 それ以来、マリアは両親を残して去った母国オーストリアには、決して戻ることがなかった。 かつて叔母アデーレ・ブロッホ=バウアーと住んだ、芸術家のサロンでもあった家は、見知らぬ会社の所有物になっていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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