8172737 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

耳(ミミ)とチャッピの布団

耳(ミミ)とチャッピの布団

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

monmoegy

monmoegy

Favorite Blog

外ネコちゃん New! あきてもさん

休日の午前中 New! moto,jcさん

GWの夏祭り New! fwkk8446さん

散歩道にこんな花が… New! marnon1104さん

錦帯橋のショップで… New! danmama313さん

Comments

moto,jc@ Re:シチリア島の橋(04/30) New! おはようございます ヨーロッパの国々の…
あきても@ Re:シチリア島の橋(04/30) New! いろいろと、問題が裏についてきますね …
marnon1104@ Re:シチリア島の橋(04/30) New! シチリア島と聞けば、マフィアと刑務所の …
danmama313@ Re:シチリア島の橋(04/30) New! たった3キロの距離を結ぶ橋が、こんな理…
パパゴリラ!@ Re:シチリア島の橋(04/30) New! シチリア島と言われればマフィアでしょう…

Freepage List

Jan 7, 2024
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
彼の理論は難しすぎてよく分からんと云う人が大多数でしょうが、アルベルト・アインシュタインと云うドイツ生まれのユダヤ人で、理論物理学者の名前はご存知でしょう。
「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」を始め 、宇宙論や揺動散逸定理 、光の粒子と波動の二重性など数多くの理論を提唱した天才ですね。
それまでの物理学の常識を根本から変え、20世紀最高の物理学者」と評されてます。
アインシュタインは1895年にスイスの名門「チューリッヒ連邦工科大学」に入学します。
その大学でミレヴァ・マリッチと云う女学生と出会います。
チューリッヒ連邦工科大学は当時としては女性に門戸を開いていた数少ない大学のひとつでしたが、ミレヴァはアインシュタインが属した「オリンピア アカデミー」と呼ばれる課程の6名の中で唯一の女性でした。
最初は友達だった2人は、しだいに恋愛感情をもつようになり、アインシュタインが熱中していた物理の文献を一緒に読むようにもなりました。
1903年、アインシュタインとミレヴァは正式に結婚し、ライン川の支流アーレ川の近くにあるアパートで暮らし始めます。
翌1904年には長男ハンスを授かります。

このアパートは壁が完全な平面でなく、歪曲している壁と天井を結ぶ線が直線でもなく少し曲がっているがアインシュタインには気になっていました。
この考えが後に一般相対性理論のアイデアを生み出す元となったのですね。
1913年、プロイセン科学アカデミーの会員となって、アインシュタイン一家はベルリンに移住します。
ベルリンに移住して数ヶ月後、アインシュタインが親それぞれ兄弟姉妹である「二重いとこ」のエルザに対して恋愛感情を抱いていると云うことが妻のミレヴァにバレてしまいます。
発覚から数ヶ月後、妻ミレヴァは長男、次男とともにチューリッヒへと引っこし別居状態となりました。
別居生活は5年ほど続き、1919年に正式な離婚の手続きが完了するのです。
離婚が成立した数ヶ月後にアインシュタインはエルザと再婚します。
アインシュタインは、最初の妻ミレヴァと2人の子供を捨てて再婚しますが、離婚成立の2年後、招待され日本へ渡航中にノーベル賞受賞の決定が通知されると小躍りして喜びました。
なぜなら、先妻ミレヴァとの離婚に際して「ノーベル賞を取ってその賞金をミレヴァに譲る」と云う約束をもとに離婚を成立させてたからです。
つまりアインシュタインにとって、ノーベル賞受賞は学問上の名誉だけでなく、賞金を受け取りそれを元妻に渡すことで、元妻との離婚騒動が完全に片づけられるからだったのですね。
しかし、実際にはノーベル賞の賞金は2人の子供のための信託とし、彼女はその利子のみが使えるだけでした。
さて、ここからが問題なのですが、アインシュタインがまだ先妻ミレヴァと結婚生活を送ってた1905年は一般に「奇跡の年」と呼ばれています。
「奇跡の年」とそれに続く数年でアインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」に関連する5つの重要な論文を立て続けに発表してるのです。

そしてミレヴァも才能ある物理学者でした。
チューリヒ工科大学では、成績でアインシュタインを上回っていたほどです。
それでアインシュタインの研究論文を出版するにあたって、ミレヴァの助力が大きかったハズですが、アインシュタインは「研究論文は女性の名前では出版されることはない」とミレヴァの名前を隠し通したのですね。
この時代、女性が科学分野で活躍できる土壌は育ってなかったのです。
重要なことはアインシュタインの有名な研究の80%は、「奇跡の年」と呼ばれるミレヴァとの結婚期間中に出版されたことです。
彼の講義ノートの多くはミレヴァの手書きであり、アインシュタインがパーティーで述べた言葉に「私には妻が必要です。彼女は私の数学の問題をすべて解決してくれるのです」。
ひとつ云えるのはミレヴァと離婚した後、アインシュタインの先鋭的な研究はトーンが下がったと云うことです。
ミレヴァがどのようにアインシュタインの研究に関与したか知ることは、今となってはすべて闇の中です。
アインシュタインは法的処置をおこなって、離婚後にミレヴァが暴露記事を書くことを禁じたからです。
ノーベル賞の賞金でミレヴァはチューリッヒに3軒の家を購入し、自身がその1つに住み、残りの2軒は借家として活用されました。
しかしチューリッヒ大学で統合失調症と診断され施設に入れられていた次男エドゥアルトの治療費が高騰。
ついに2軒の家を売らざるを得なくなったのです。
晩年のミレヴァは非常に困窮しながらも、エドゥアルトの介護のみに励んだそうです。

ミレヴァは1948年、72歳でチューリッヒで亡くなりました。
2005年、チューリッヒ工科大学と聖母協会によって名誉表彰され、彼女が暮らしていたチューリッヒの家にメモリアルプレートが設置されました。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Jan 7, 2024 05:09:23 AM
コメント(6) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.