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テーマ:猫のいる生活(136069)
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スカイダイビングでパラシュートを納めたコンテナからパラシュートを引き出して開くための紐をリップコードと云います。
云ってみればスカイダイバーの命綱ですな。 このリップコードを発明したのは20世紀初頭のアメリカ人女性だったのです。 身長はわずか4フィート(1m20cm )しかありませんでした。 タイニーは1908年に初めてジャンプしました。 このとき彼女は15歳です。 彼女がパラシュートによるジャンプに打ち込むようになったのは父親にカーニバルに連れて行ってもらったのがきっかけです。 そこで、当時有名な飛行士が熱気球からパラシュートで降下するのを見たのです。 その瞬間から、タイニーの人生はパラシュートという1つのことに集中するようになったのです。 彼女はパラシュート降下を見世物にする劇団に参加させてくれるよう懇願しました。 当初、劇団の団長は躊躇したようですが、両親を説得するのにどのような戦術を用いたのか彼女の母親は折れて、劇団に参加してパラシュート降下を学ぶことになったのです。 そして1908年の12月28日に初めて気球から飛び降りると、たちまち彼女はショーのスターになったのです。 しかし飛行機が急速に高性能になるにつれて、熱気球は時代遅れになりつつありました。 1912年、タイニーは、今では巨大航空企業になったロッキード・マーティンの前身、マーティン・マリエッタの創設者である陸軍パイロット、グレン・マーティンに会いました。 当時、彼は数機の飛行機を作り、群衆を魅了する新しいイベントを模索しているところだったのです。 彼はタイニーに、飛行機からパラシュートで降下したいかどうか尋ねました。 彼女の最も有名なジャンプは1914年、マーティンが操縦した飛行機からロサンゼルスのグリフィス パーク上空でパラシュート降下したときのものです。 ほとんどの公式情報は、その前年にマーティンが操縦した彼女のジャンプが、女性による世界初の飛行機からのパラシュート降下としていますが、1912年にアメリカ陸軍の大尉アルバート・ベリーがセントルイスのジェファーソン兵舎でブノワ複葉機から史上初の女性によるジャンプを行ってるので、タイニーは1年遅れをとったワケです。 当時、アメリカ陸軍航空隊はパラシュートに懐疑的でした。 パラシュートは飛行機の機体に絡まりやすく、災害につながる可能性があったため、各国のパイロットたちはパラシュートの携行を嫌っていたのです。 しかし、1914年後半に第1次世界大戦が激化すると、すべての軍の飛行活動を管理していたアメリカ陸軍航空局からタイニーにパラシュート降下技術を教えてほしいと要請がきたのです。 なにしろ当時、誰よりもパラシュート降下についてよく知っていたのがタイニーだったからです。 ところが、この陸軍のために行った降下デモで事件がおこったのです。 当時、飛行機からのパラシュート降下は、展開コード(スタティックライン)をフックで飛行機のケーブルに繋いでパラシュートを展開する方法だったのですが、このスタティックラインが飛行機の尾翼に絡まってしまったのです。 これでは着陸時に引きずり込まれて死ぬ危険があります。 しかも風が激しいため彼女の小さな体を前後にひっくり返し、飛行機に戻ることができなくなったのです。 しかし、タイニーは冷静に全てのスタティックラインを自分から切り離し、1本だけ身体の近くで切り取って残しておいたのですね。 スタティックラインを切り離したことによって、彼女は飛行機から落下していったのですが、残りの1本のロープを引いてパラシュートを展開し、安全に地上に着地することができたのです。 そしてこれが今日のパラシュート世界標準機能「リップコード」の発明となったのです。 タイニーは生涯、1,100回を超すジャンプを行い、いくつかの悲惨な事故に耐え生き延びました。 一度、彼女はちょうど駅を出発する列車の屋根に着陸したことがありました。 彼女は沿線に設置されてる風車の羽根や高圧線に絡まってしまいました。 そのため骨折、足首の捻挫、背中の捻挫など、数多くのケガを負ったのですね。 それでも彼女はジャンプし続けたのです。 彼女の最後のジャンプは1922年でした。 それまでの度重なるケガで足首に慢性的な痛みがあったため引退を余儀なくされたのです。 それからの彼女はタイヤ工場の組み立てラインで働くようになりました。 その後、高齢者向けのコンパニオンハウスキーパーとして働いたのですね。 タイニーは人生のほとんどをカリフォルニアで過ごしました。 そして1978年に85歳で亡くなりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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