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カテゴリ:想い
私の故郷は、人口五万程度の小さな城下町です。
交通の便等々を含む地方という地域性により、戦後の高度成長時代にもおよそ無関係に、世の趨勢とは隔絶した中を辿ってきた感があります。 しかし、私の中では、その変わらぬ子供時代からの風景は、まさに心象風景そのものまでを、壊さずに今日まで運んできたようです。 白壁から顔を覗かせる黄色い夏みかん。 静寂な日曜日の昼下がりを歩けば、何処からか流れ漏れてくるNHKのど自慢の鐘の音。 時は緩やかに刻まれ、低い家並の向こうには澄んだ青空と浮かぶ白い雲。 陽光に輝く軒高き寺の甍。 ほぼ歩いて行き渡ることのできる小さな町。 町の何処に居てもシンボル的に仰ぐことのできる小高い指月山が、まるで人影の様に寄り添いながら碁盤目状の路地を少しばかり歩けば、やがて目の前に松林、そして砂浜と海原が開けてきます。 白砂に穏やかに寄せては引く波。 水平線に浮かぶ島々。 傍には、やはり変わらぬ姿で静かに優しく見守るように指月山が存在している。 私の子供の頃、そして、遡る幕末においては、松陰先生も高杉晋作も木戸孝允(桂小五郎)達が見ただろう風景は、今もさして変わりはないのでしょう。 観光名所である松陰神社も彼ら旧宅も、私が過ごした日々においては、他所と変わらぬ遊び場所であり風景の中のひとつに過ぎませんでした。 私は今もって故郷を愛しています。 隔絶されたかの様な町。 それは幕末当時においてもそうであったのでしょう。 遠く、想い描く江戸に高揚が喧騒している。 情報も物も、すぐさま手に入れることのできる現代社会においては、情操は置き去りにされ、熱情も大志も、机上を超えることなどないほどの小ささになっているのではなかろうか。 今の政治しかり。 先人は、海の向こうに、空の彼方に想いを馳せ、 人に会うために見聞を広めるために、江戸に京に長崎に、気の遠くなる距離を自らの脚で駆け抜けて行きました。 想(念)いが困難を勝っていたのです。 氾濫する情報と、過ぎた個人主義と充たされ過ぎた狭小世界に人間は埋没し、感動も想(念)も手放してしまったようです。 溢れる利便性の中で作り上げられた、デジタル的で平面な感情と引換に、人は大切な多くを失ったことに気づかない。 個人的利得の追求は際限をみません。 暴風雨も、台風の目に入れば何事もないように静かです。 混乱の坩堝の中を往左往し続ける人間達。 穏やかなる海と広がる青い空。 世の喧騒を離れれば、静かに見えてくるものがあります。 想いは如何なる障壁を持たず、空間を越えていける。 海や空や雲同様、心にも限度はないのです。 故郷に限らず、私は、今も昔の名残りをもつ城下町が好きです。 其処に佇めば、心は実に落ち着いてきて、先人と同じ様に彼方に想いを馳せることができるのです。 ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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