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カテゴリ:想い
他人と比べて何に憂い、何を悔やみますか?
幾ら物質的財を持とうと、飛切りの頭脳や容姿に恵まれようと、 全てが満たされるわけではありません。 不完全なところにこそ、本人が気づかない魅力は多々存在するのです。 それを、自ら欠点と決めつけ潰さないことです。 何をもって幸せと思うのでしょう。 もし、健康体でこれまで大病なく生きてこられたのなら、それはそれで、万々歳なる幸せをひとつ手にしているとも言えるでしょう。 財あっても身体弱い者によって、当人は気づかぬ対面の価値を見い出されるのです。 であれば、何は無くとも健康体に産んでくれた親に、感謝のひとつも持たなければならない。 足ることを知らず、有り余る満たされた中に生き続ければ、感動する対象は薄れ、心は限りなくか細くなっていきます。 しかしながら、物質と精神の満杯に余地を持つことこそ、未来への希望と、大切な事への喜びと感謝の念を持ち続けることもできます。 自然の美しさや営み、音楽に感動し、 なけなしの金をはたいて買う一冊の活字にも、多くの気づきを得ることでしょう。 身体に障害を持つ人は、同じ立場の胸の内を理解できます。 介護に大変な人は、例え肉親であっても時に煩わしさを感じ、 そう思う我の心を責めます。 が、責めることなどありません。 それが人間なのですから。 我を責め、我に問う段階で、貴方の心は既に善側に立っている。 小心者であれば、体験なくとも戦争の悲惨さ、恐怖を身近に感じ取ることができます。 他人の心の痛みを我が事のように推し量れるようであれば、如何なる飛び抜けた才能よりも、人として、先ずは生きるに十分な人間価値を持つことになるのです。 満たされ過ぎた中で、ときめきや有難さのひとつも忘れ、絶えず空虚感を持ちながら生きるのと、手を伸ばし欲すればまだある事の嬉しさ。 心勝れば、欲とのバランスを取りながら、人の縁も眼前に起る事象も、はたまた四季の移ろいも、肯定的に懐深く留めることができるのです。 小さくともきらめく沢山の事に気づきながら、縁は円を描いて、発する心に、まるでブーメランのように手元に還って来るでしょう。 それは直ぐなのか、それとも忘れた頃に突然やって来るのか。 はたまた、時を隔てて遠き彼方に再び生きる我なのかもしれません。 しかしそんなことを考える必要はありません。 想念と行動の延長線上に今があり、誰の所為でもなく、今の在り方によって、我は未来へと運ばれるのですから。 ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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