タイトルに市街に帰って来ると書きましたが、別に今、市外にある訳でなく、一応市内ながら京都市の西の端から市の中心部に帰って来るという意味です。
過日、智積院が徳川家康のお蔭で今の地に創設されたことを書きましたが、元の智積院の敷地はずっと小さかったのです。
智積院があれだけの広い敷地になったのは、隣接していた、京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)の敷地、校舎など全て(と隣接していた韓国人学校の敷地を) を買収して、敷地を拡張し、レトロな旧校舎は宗務庁の建物として現在も使っています。
さて、智積院の隣にあった美術大学(地元では「美大」と言っていた) は京都市の西の端、大枝(おおえ)地区に移転して現在に至るのですが、又々次の様に移転計画が進んでいます。
『京都市立芸術大学の移転整備』
昭和55(1980)年には,それまで別々の地にあった美術学部(注:智積院隣接地)と音楽学部を一つのキャンパスとして現在地の西京区大枝沓掛に移転しました。
しかしながら,移転から30年以上が経過する中で,立地条件や建物の耐震性,バリアフリーの問題など各種の課題が顕在化したことから,これらの課題を解消するため「崇仁地域への移転・整備に関する要望書」を提出しました。
これを受け,京都市では,本学が我が国有数の芸術の学びと創造の拠点として歴史と伝統を更に重ね,世界に冠たる芸術大学として一層飛躍するため,京都の玄関口・京都駅の東に位置する崇仁地域へ移転整備する方針を決定・・・・。
・・・と言うことで2023年に市街地へ帰って来るのですが上に書きました旧美大のレトロな建物は今も健在下の写真を参照下さい。
左から金堂、正面樹の向こうが明王殿、そして旧美大校舎です。
そして、金堂の奥、石段を登ると左側に墓地、その隣にあるこのプレハブの立っている場所は、旧美大の彫刻科の分校の有った敷地なのですが・・・・
ここも京都市から智積院が買収して、長らく広場で放置されていたのですが、数年前から京都女子大の仮設校舎用地として貸している敷地です。
将来はこの西側にある墓地が拡張されるのでは・・・・と勝手に思っているのですが・・・・・。
・・・と言うことで、智積院は敷地を広くし、京都市立芸術大学は交通が極端に不便な場所から、今度は交通至便な場所に帰ってくるようになり、両方ともメデタシメデタシという事になります。