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みかんの木を育てる-四季の変化

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2011年09月09日
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第5回マルクスの『ヘーゲル法哲学の批判から』(c立法権 その2)

『ヘーゲル法の哲学の批判から』も、今回で5回目となります。
理解できないところも多々ありますから、全てを通して紹介することはできませんが、何とか終わりまで行きたいと思っています。

今回は、(c立法権)の批判、その2回目、第301節です。

P108 第301節「議会的要素の使命は、公共事がたんに即自的にのみならずまた対自的にもそこにあらわれてくるようにすることだ。換言すれば、主体的形式的自由の契機がそこに存在してくるようにすること、多数者の見解と思想との経験的普遍性としての世論がそこにあらわれてくるようにすることである。」

ヘーゲルは、立法権の中の「議会的要素」、すなわち議会を取り上げています。

この第301節に関して、マルクスは冒頭でヘーゲルに対する義憤を述べています。
P108「議会的要素は「多数者」として国家に対立する市民社会が、国家に向けて出している代表である」。その後ですが、「国家精神、道義的精神、国家意識をあんなに重んじるヘーゲルが、それが現実的経験的な姿で彼と面とむかって出てくるところでは本式にそれを軽視するのは特徴的である」と。

マルクスは、いったいどうして、どこにそう感じるのか?
当初、この個所をいくら読んでも、問題の所在やその根拠がよく分らなかったのですが。
あらためてヘーゲル『法の哲学』(中央公論社)の第301節(この節は短いものですが)全体を読んでみたところ、納得しました。
ヘーゲルは、この節で議会について探っていますが、それが議会を軽視し、世論を見下していること。他方では官僚の能力や力を、天まで持ち上げていること。そうした特徴がありありでした。マルクスの批判は、そうしたヘーゲルのこの節全体に対して、まず一番に問題としていた点だったんですね。
マルクスは、冒頭でこの批判をしてから、その後で順次ヘーゲルの叙述を検討することで、その根拠を明らかにしています。そうした順番になっているようです。

まずマルクスが問題とするのは、「ここではとくに公共事の「即自在」と「対自在」の区別に着目すべきだ」との点です。
P109「議会がもつ使命は、公共事がたんに即自的にのみならずまた対自的にもそこにあらわれてくるようにすることである」しかも公共事が対自的にあらわれてくるのは、「世論」としてであり、「多数者の見解と思想との経験的普遍性」としてである。
これは冒頭で引用したもの、ヘーゲルの第301節の最初の部分です。
マルクスは、この弁証法の基本範疇の一つを明らかにしたヘーゲルが、それを公共事に関してどのように用いているか?これを問題にしています。

P110 ヘーゲルによると、公共事は即自的には国民の係わりなしに、すでに出来上がっており、政府の仕事として存在する。しかし、それは市民社会との係わりが無いから公共事ではない。それが対自的になるのは、議会によって世論や経験的普遍性になることによってだが、それはまったく形式的な契機として外的に付け加わらせることでしかないと言う。この点でも、ヘーゲルは問題を自己の論理に合わせようとしている点が指摘されてます。

P111 またヘーゲルは、議会において主体的自由が存在してくるようにする、多数者の見解や世論があらわれるようにするが、それは「形式的自由」としてあらわれると言ってます。外見だけの自由、カッコをつけるだけの形式的自由といったところでしょうか。
マルクスは、それはヘーゲルが客観的自由を主体的自由の実現、実行として出すことをしなかったからだ、と指摘しています。
(この『自由』観の違いは、「実行」の関連も含めて、重要な問題をふくんでいます)結局、マルクスは「即自的」「対自的」の問題の締めくくりで、「即自と対自、実体と主体を分離させるヘーゲルは、抽象的まやかしである」と結論的に指摘しています。

P111 どうしてヘーゲルはこうしたことになるのか?
マルクスは、ヘーゲルが議会を相当ひどく一つの「形式的」、「幻想的」なものだと説明し、議会の知も意志にたいしても゛とるにたらぬもの゛゛いかがわしいもの゛とみていることによると指摘し、それでは「議会は内容ある補充物などではおおよそないということになる」と批判しています。
P112-113 マルクスは、第301節の注から、そうしたヘーゲルの見解を抜粋します。
その抜粋していく途中でコメントも一言、「そしてヘーゲルが叙べている組織の場合には、(プロイセンの国家の場合は)、これがすっかりほんとうであるのは自明のことである」とも、そえています。

P113 こうしてヘーゲルから議会についての抜粋をした後で、さらにマルクスはそれらの見解を要約することまでしています。

P114 マルクスは、この様にヘーゲルの見解を懇切丁寧に検討した上で、自らの見解を対置しています。「批判」とは、こういうふうにするもと、実例を見せてくれています。
1、現代諸国家では、ヘーゲルが法哲学で指摘するように、公共事の現実性は形式的であるにすぎない。

2、ヘーゲルがとがめられるべきなのは、彼が現代国家の在り方をあるがままに描くからではなくて、現にある姿を国家というものの本質的な在り方だ、と言っている点だ。
実際は『理性的なものが現実的であることは、ありとあらゆるところで、その実態はその申し立てているところの逆であり、申し立てているところはその実態の逆であるような非理性的現実性の矛盾のうちにこそ証されている』。
゛理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である゛とは、『法の哲学』の序文でヘーゲルが述べたことですが、マルクスがその上を行ってます。

3、ヘーゲルは議会というものを、ただ論理のためにのみ望んでいる。
「公共事の対自在」が何らかの形で必要だったし、その適切な実現を求めようとはせずに、この論理的範疇に解消されるような経験的存在を見つけだすことだけで満足する、それが議会ということだった。ヘーゲルは、世間の普通の考えがこの論理的満足に甘んじないこと、現実の勝手な捨象により、現実が論理に解消されることをよろこばず、かえって論理が真の客観性に変えられるのを望むことを非難する。

P115 真の対立は、公共事が現実的な経験的なこととしてでてくるが、普遍的な衣をつけて出てこなければならず、そうなると一つの幻想になるということ。
ここでは問題は、形式としての普遍と内容としての普遍との対立にある。

P116 立憲国家とは、国民の現実的利益としての国家の利益は、ただ形式的にのみある国家になっている。一つの儀式となった。
議会が゛国家は国民の利益である゛というのは立憲諸国家にみとめられた法的な嘘であり、内容においてこの嘘は正体をあらわすだろう。

P117-118 注からの抜粋がある。議会のうちにある公的自由のための保障について、どのくらいの現実性をもっているか。また、議会独自の概念規定について、ヘーゲルの叙述が紹介されてます。

P118 ヘーゲルは「議会の独自の概念規定」として、「市民社会の独自の知見と意志が」議会において「国家への関係であらわれでる」と言っていることが、マルクスはここに「真の関係を解き明かす」と指摘しています。
議会は国家への市民社会の反映である。官僚が市民社会への国家の代表であるように、議会は国家に向けて出された市民社会の代表である。したがって、議会にあるのはつねに二つの対立的意志の取引である。

二つの対立的意思がぶつかりあう議会の現実について、マルクスはヘーゲルを誤りを指摘します。
「対立的意思を、ヘーゲルは『悲しい誤謬』というが、『悲しい真理』 だ」
「政府は他の党派に対立する党派などではないとヘーゲルは言うが、逆だ」
「租税は贈り物とされるべきではないとヘーゲルはいうが、一般の考えからすれば一つの贈り物だ」。

そして最後に見通しをのべています。
P119 ヘーゲルは301節の注の最後に言ってます「議会の本来の意義はどこにあるか、それは、国家がそれを通じて国民の主体的意思に入り込み、そして国民が国家に参与しはじめるところにある」と。
マルクスはそれを評しています。「後のほうはまったく正しい。議会において国民は国家に参与しはじめるし、ある彼岸的なものとしての国家も国民の主体的意識にはいりこむ。しかし、どうしてヘーゲルはこのはじまりを完全な現実だと言えるのだろうか」と。
マルクスは、現実がさらに発展する可能性を考慮していますが、ヘーゲルは大きくは現実を本質的なものとして見ようとしている、ここに両者の違いが出ていると思います。

ほとんど、マルクスの著書からの書き抜きになってしまいました。
マルクスとヘーゲルとの対話、ここでは著作からの乱暴な粗筋の紹介でしかないのですが。

マルクスが「ヘーゲルによってもっとも筋道だった、もっとも豊かな、そして窮極的な形にまとめられたドイツの国家および法哲学に対する批判は、一面現代国家とそれにつながる現実との批判的分析であるとともに、他面またドイツの政治的および法的意識従来の在り方全体の決定的否定でもある」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)と、この作業のあとで語ってます。
なるほど、と少しその意味がわかるような気がしてきます。






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Last updated  2011年09月13日 21時49分37秒
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