ディーツゲン『哲学の実果』を読んで (その3)
4月4日、神奈川県西部は午前中に雨が降ったようです。従って足止めです。
それで、引き続きディーツゲン(1828-1888)の『哲学の実果』を読みました。
前回に続き、「新しい皮袋に詰めかえた旧い酒」とは何か。
ディーツゲンの最初の著作『人間の頭脳活動の本質』(1869年)から、その後18年が過ぎましたが、晩年の『哲学の実果』(1887年)では、その間にどのような前進があったか、これを探っています。
第一回(3月15日)では、当方がその名前を知ったのは、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』で、
「唯物論的弁証法は、我々によって発見されただけではなく、われわれとは独立に、ヘーゲルとさえ独立にドイツの労働者ディーツゲンによっても発見された」(第4章)との指摘でした。
第二回は、『実果』では、第十二章「精神と物質-どちらが第一次的か」において、新たにヘーゲル哲学そのものへの論評が加わってました。
ヘーゲルが「すべての物は、運動し、互いにつながっている」ことを洞察したこと。それに対しディーツゲンが加えたのは「思想と概念とは、宇宙的生命の例証であり、反映したものであるにすぎない」との点だったことを紹介しました。
指摘された通りディーツゲンは、独自の努力で唯物論的弁証法を見つけたんですね。
ここで第一回にについて、一つ訂正があります。
第一回で「エンゲルスが『フォイエルバッハ論』を刊行したのは1888年2月だから、『哲学の実果』(1887年2月刊)を読んでいただろう」と想像していたのですが。
これは誤りでした。エンゲルスが『フォイエルバッハ論』を執筆したのはそれより早く、1886年に「ノイエ・ツァイト(新時代)」誌に掲載していた、これをまとめたんですね。
従って、エンゲルスが本文を執筆した時は『哲学の実果』は読んでなかったんですね。
今回の二つ目の「詰め替えた酒」ですが。
哲学の一般的法則と、多様な分野(諸科学)での探究との関連の問題です。
ディーツゲンは、第4章「自然の普遍性について」で述べています。
P32-2節「経験を積んだ理解力は、昔のように狂気じみた、ただ内観的な方法で、自然全体について冥想するようなことはしない。むしろ専門的な研究により自然に関する知識を得ようとする。しかし、そうするうちにも特殊な性質についての研究は、事物の一般的関係の理解を助けることも忘れてはならない」と述べています。
ここでディーツゲンが言わんとしていることですが。
これまでの習慣として内観的な冥想の方法・態度が多くあるのに対して、そうではなく思想を経験と結びつけること、事物に対する帰納的方法を重視した諸科学の追跡が重要だということ。存在-自然と社会の多種多様な分野の区別というのは、法外な誇張した区別と見てはならず、「ただ、漸次的段階的な区別」されるものとしてみることが肝心だと指摘しています。
さらに、ここから哲学と諸科学との関係を指摘していきます。
多岐多様な存在というのは、(哲学により明らかにされる)一般的なものの部分的な表現にすぎない。あまたの無限な多様な過程と産物を、概括的な一般性においてとらえる。同時に詳細に見ていく。ただ限られた形・方法ですが、問題を解くことが出来る。
もう一点、この「限られた形」ということで、「感傷的な奴隷根性的な形而上学は、人間の理解力をみじめなものと見なそうとする」。が、しかし自然は人間の理解力にたいして、そんなにケチじゃない。我々の知力もその一部である自然は、人が求めるならば、無尽蔵に明らかにしてくれる。ただ自然に比べて人の認識が、その全体に対する部分であり、その限りで制限されているというだけだ、と。
これらのディーツゲンの紹介は、私の現在の課題や理解からしての、意訳的、解釈的要素が多々ありますが。激動する現在の多岐な問題に、基本姿勢を堅持して臨むためには、これらの解明は大いに参考になるものと読みました。
以上、第4章からですが、みかん園の雨に濡れたおかげでの副産物でした。