レーニンの「農奴制崩壊五十周年」を読んで
まだ引き続き写真ソフトの会社のトラブルが続いています。
それで今回も写真は使えません。
(本日、まだ完全ではないようですが、修復されつつあるようです。)
私は、レーニンとトルストイについて、この間読む機会があったんですが。
レーニンは、ロシアの文豪トルストイについていろいろ論じています。
その中には、
「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」(1908年9月11日)、
「エリ・エヌ・トルストイとその時代」(1911年1月22日)などがありました。
レーニンは、トルストイの作品が、ロシアの1861年農民改革から1905年にかけてのロシアの社会状況をよく反映したものとして、たかく評価していました。
その上で、問題の打開策については、大きな弱点を指摘しているんですが。
そうした流れの中で、
今回の「農奴制崩壊五十周年」(1911年2月8日 全集17巻)を読んだんですが。
この小論は、新聞『ラボ―チャヤ・ガゼータ』第三号に掲載されたものとのこと。
全集で4ページと、ごく短い論文です。
トルストイの作品に描かれたロシア社会というのは、この小論に特徴づけられている農奴制崩壊後の50年の農民の置かれた様子が、農村社会が背景になっているわけです。
一般的に、その農地改革ですが、それを世界の諸国ではどのように経験したかというと、
フランスは1789年の大革命のなかです。他の多くのヨーロッパの諸国は1848年に経験している。
これに対してロシアでは、1861年の農地改革だったんですね。
ちなみに日本では、これに対応するのは、1946年の農地改革です。
その歴史的な形態は違いますが。
レーニンのこの小論から、ロシアの農奴制崩壊後の50年の特徴について、その社会の特徴について、いくつか書き抜いてみました。
「1861年のロシアでは、幾百年も地主の奴隷となってきた人々には、自由をめざす広範な、公然たる、自覚した闘争に立ち上がる能力を持たなかった。農民蜂起はたやすく鎮圧された。農奴制の廃止は、クリミア戦争の敗北後、農奴制を維持していくことが不可能と悟った政府の手でおこなわれた。」
「ロシアの農民を『解放』するにあたり、農民の土地の五分の一以上を地主が切り取った。農民に土地の買取り金の支払い義務を負わせた。これにより農民は零落した。また農民に役立たない土地を割り当てた。農民はあいかわらず昔の儘の債務奴隷の状態だった。」
「農民が『解放』後にも、ロシアで味わったほど零落、貧困、卑下、侮辱を味わった国は、世界のどこにもない。」
「しかし農奴制の崩壊は、全人民をふるいたたせ、彼らを永い眠りから呼びさまし、自ら活路をみいだし、自ら完全な自由をめざしてたたかうことを、彼らに教えた。」
トルストイの作品の中には、この時期のロシアの農民たちの置かれた状況について、農民たちへの愛情をこめて描かれています。それがトルストイの人道主義的な魅力だと思うんですが。
ところで、問題は、これを読んでいて、日本社会の歴史を考えさせられる点です。
日本の場合、遅れたロシアよりも、さらに遅れた農村・農民だったということです。
1861年のロシアどころか、日本の場合は、敗戦後の1946年の農地改革に至るまで変わらなかったわけです。このロシアの農民の状態と、戦前の日本の農村とは、大差はなかったはずなんですよ。
したがって、国民の下からの民主主義の運動は、江戸時代の三百年も、その後の明治維新の改革後もずーっと禁圧されてきたし、とくに昭和10年代は治安維持法によって徹底して弾圧され、取り締まりの対象とされたわけです。国民の自由などということは危険思想だったわけです。
1945年からの戦後改革によって、はじめて憲法と民主的自由が保障されるようになったんですね。だからその歴史は、まだ浅いんですね。こうした歴史も関係しているんでしょう。
明確な悪政が横行しても、国民はおとなしくて、きっぱりした反対運動が弱い。国家と憲法に責任をもつはずの政治家が、憲法を足蹴にして平然としてはばからないのも、日本のこうした歴史にも原因しているかもしれません。
私などが、民主主義は生まれたときからの自然なもののように考えてしまい、特定の歴史的な成果だという点への認識の弱さも、それが関係していると思います。
ただし、それはけっして宿命的なものではないと思うんですよ。
去年の戦争法に反対する国民の動きは、それを示したと思います。もちろん歴史を見ても、先駆的な民主主義的な思想家や運動というのは、戦前の困難な中でも様々な形で存在してきたんですから。ましてや、戦後70年のさまざまな体験の中では、たくさんの世界の人たちにも誇れるような成果を、国民運動はつくってきているんですから。
そんな中で、レーニンのこの小論「農奴制崩壊五十周年」を読むと、
農地改革という断面において、共通な問題の、歴史的に異なった形態だということを。
日本とロシアの歴史社会の共通性とともに、歴史形態の相違を感じさせられます。