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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
新版『資本論』の学習(その3)序言・後書について 当方は、フォイエルバッハじゃありませんが、団地とみかん畑にこもる隠遁生活ですが。 1859年『経済学批判』の時も「序言」をそえて、経済学研究にいたる歩みに、研究の導きとなった唯物論的歴史観について紹介していました。今回の場合も同じ方法の問題を、1867年の初版、1873年の後書のそれぞれで紹介しているんですが、その紹介の仕方が独特なんですね。
〔初版序言〕1、今の資本主義社会にとって、労働生産物の商品、商品の価値形態が細胞になっていて、人の抽象力でもって単純な形態から豊かで複雑な形態まで研究しなければならないし、その結果を示したものだと。 〔第二版のあと書〕3、資本主義的生産が現実になったドイツでは、ブルジョア的視野の中では物事にとらわれない研究が許されなくなっている。経済学がブルジョア的である限り、資本主義的秩序を社会的生産の歴史的に一時的な発展段階ととらえないで、反対に絶対的で究極的なものとしてとらえようとするようになる。経済学が科学でありうるのは階級闘争がまだ潜在的であるか、個別現象として現れている間に過ぎない。 以前に大内兵衛著『経済学五十年』上下(東京大学出版会)を紹介しましたが、日本にマルクス経済学がどの様に広がってきたのか。ある見方からすれば、若い人たちがなぜマルクスの思想、経済学に引かれたのか、惹かれるのか。そうした魅力が出ていると思うんです。それぞれ癖はあっても、日本における国民的な宝であり、知的な遺産でもありますから、大事にしたいですね。
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Last updated
2019年10月07日 00時06分37秒
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