ヘーゲル『大論理学』9 第二巻本質論 まえがき
ヘーゲル『大論理学』の第二巻本質論にはいります。
岩波書店のヘーゲル全集7(武市健人訳)で読んでます。
ヘーゲルの『大論理学』は、第一巻有論、第二巻本質論、第三巻概念論からなっていますが、
これからあたる第二巻「本質論」ですが、第一巻の有(ある)ということが流動的なものだったのにたいして、そのなかにある固定的なことがらを検討します。
全体では、以下の三篇、9章からなっています。
第一篇本質 第一章仮象、第二章本質性、第三章根拠
第二篇現象 第一章実存、第二章現象、第三章本質的相関
第三篇現実性 第一章絶対者、第二章現実性、第三章絶対的相関
今回は、第一篇のまえにかかれている「まえがき」的な部分です。
5ページありますが、文章の節に番号をつけると、全部で10節になります。
一、大まかにでも、第二巻本質論の全体観をつかむことが、道に迷わないために大事だと思います。
そのために、これまでにも紹介しましたが、ヘーゲル自身による『哲学入門』(岩波文庫)の第二課程と第三課程の論理学や、有斐閣新書の『ヘーゲル論理学入門』をつかって概観をつかむようにしています。
今回あたる「まえがき的」部分ですが、
「有の真理は本質である」(P3 第一節)からはじまります。
この冒頭の5ページですが、これも本質論の全体観をもってもらうこと意識して、ヘーゲルが書いているとよみました。
二、私などは、ふつう本質というと、様々な現象にたいする相対的なことがらとして、ものごとの核心的なこととして使っていて、それ以上は問い返すようなことはなかったんですが。
ヘーゲルは、本質ということを、『論理学』にとって、ものごとを認識していく上で、大事な要の位地をなす言葉(概念)として、ここで提起しているんですね。
そのいくつかを書き抜いてみましょう。
第二節 有は直接的なもの。人が有の真相を認識しようとすると、この直接的なものにとどまらず、この有の背後にあって、有とはことなり、有を貫ぬく有の真理といったものを知る。そうしたものは媒介されたものだけど、それが本質だ、と。
第三節 この運動を知識の行程と考えると、この有からの出発と、この有を止揚して、媒介されたものとしての本質に到達する進行(行程)とは、有に対して外面的で、無関係な認識の活動であるかのように見える。
第四節 けれども、この行程は有自身の運動である。
第六節 ここに現れてきた本質は、真の本質だ。それは自己に外的な否定をとおして現れたのではなく、自分自身の運動、すなわち有の無限の運動を通事て現れたものである。
第七節 本質は有の完全な自己復帰である。本質は有を即自的にはくんでいるが、何らの定有をもたない。けれども本質は定有に移行しなければならない。本質は即且向自由であり、即自的にふくむ各規定を区別するものだから。
第八節 本質の規定性は直接的にあるのではなく、本質の統一した関係の中にのみある。本質の否定性は反省である。各規定は反省された規定であり、あくまで本質の中にもとどまっている規定である。
第九節 本質は有と概念の間にたち、両者の中間をなしている。そしてその運動は有から概念への移行を形成する。
ここで、個々に述べていることですが、それらはここで完全に理解できるわけではないのです。
しかし、これからの「本質論」の展開において、全9章が展開されていく中で、こうした諸問題が焦点になるということを、ヘーゲルはがあらかじめ示唆しているわけです。ということで、この冒頭部分で、これからの全体的な流れを、スケッチといったものを、ヘーゲルは示しているわけです。
三、レーニンの『哲学ノート』ですが、この冒頭の部分については、7点の書き抜きをして、コメントを残しています。
1、ヘーゲルの第二節を書き抜いています。「有は直接的なものである。知識は有の即自かつ対自的な真相を認識しようとするものだから、それは直接的なものおよびその諸規定にとどまらないで〈とどまらないで、に注意〉、その有の奥になお有そのものとは別な或る他のものがあり、この奥にあるものこそ有の真理であるという前提をもって、直接的なものを貫いて〈注意〉突き進んでゆく〈注意〉。」
レーニンはヘーゲルからの引用した部分に〈NB 注意〉と強調したり、引用の横に『認識論』『(認識の道程』との言葉を残しています。
2、第四節の「しかしこの歩みは有そのものの運動である」の箇所については、『客観的意義』とのコメントをのこしています。
レーニンが、この本質論の部分にたいして、かなり生き生きとした注目をしたことがうかがえます。
以前に、レーニンの着眼点は、問題意識はヘーゲルの弁証法についてだったと言いましたが、ここを見ると基本はそうなんですが、しかしそれは狭いものではなくて、「認識論」、「客観主義」など、ヘーゲルからそこにある積極的な中身を、大きく学びとろうとしていたことがうかがえます。
四、まだ本質論の冒頭の5ページですから、四の五の言える段階ではないんですが。
私などの感想としては、この論理学を、本質論を、学びながら思うんですが。
これは、ものごとを認識していく上での、一般的なあり方(認識の行程)を示唆しているようにおもいます。たとえば、日本の国の政治、東京都政の本質的な評価ということにも関係してきます。人間関係での、ないし人間の社会関係でのあり方、本質的な見方ということにも関係してきます。さらに本質論の認識段階から概念的な認識の段階へ高めるという問題も出てきます。
日々は手探りで、それらのことを探っているわけですが、もしも論理学についての認識をしっかりもつようになったら、「知は力」で、日々の生活や活動の仕方も、少しは変わってくるんじゃないか・・・などとの感じ素朴にわいてくるわけです。
しかしとにかく、まだ「本質論」の学習は、たった5ページがすすんだだけですから。なにほどのことを言えるかということですが。
自分勝手な想像や推測などをかぶせることではなく、他の学者の人たちの見解をわかったようにくちまねするといっことでもなく、やはり大事なのは、自分自身の力でヘーゲル『大論理学』に挑戦して、その中から、そこにある宝を発見し、引き出してくるということです。
ということで、次回は、第一章仮象です。