|
カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
ヘーゲル『大論理学』24 概念論5第一篇・第一章概念 迷路のような道のりを歩いていると、いったい今、自分がどの辺をすすんでいるのか、分からなくなることがあると思います。また、どうしてこのような苦労をしなければならないのか。『大論理学』-このヘーゲルの難しい本にあたっていると、五里霧中の苦しさから放棄してもおかしくない事態にぶつかります。 第三巻「概念論」・第一篇「主観性」のところも、そうした一つじゃないでしょうか。 ヘーゲル自身も「論理学における推理以上に無味乾燥なものはありません。全体は利用されず、流行しなくなりました。しかし推理はそのようにたんに無視されてはならず、どこに欠陥があるのかが意識されなければなりません」(『論理学講義』P210)と言っているくらいですから。 ましてや哲学の下地の無い私などが、その難関をどの様に踏破していくのか、問われています。 この『論理学」で展開しているのは弁証法だと思うんです。弁証法的論理学だと思うんです。この試みは、古代ギリシャのアリストテレス以降の歴史では、意識的な努力はヘーゲルが二人目だそうです。 その弁証法というのは、自然と社会、そして人の思考の最も一般的な法則性でもあるというんです。ヘーゲルがこの『大論理学』で明らかにしようとしているのは、この思考法則なんです。 以上の点からしても、弁証法の教科書風の一般的解説だけでわかったような気になるのではなく、また自分の勝手な問題意識からの自己流の解釈論を勝手に展開するんじゃなくて、大事なことは基本的姿勢として『大論理学』は何を明らかにしたのか、この中身を真摯に探究する努力が、基本として求められているんじゃないかと思います。 私などの普段の日常では、概念というは、コップならコップ、机なら机と、あるものの名称くらいで済んでいるんですが。そこがヘーゲルとなると違うんですね。この概念ということについて、『大論理学』第三巻「概念論」で385ページもの長さにわたって書いているんです。たかが概念されど概念、で。概念にはそうするだけの問題と中身があるというんです。 しかし、実際に『大論理学』をチョッとでもページをめくるとわかるんですが、たとえば第一篇「主観性」の冒頭部分ですが、 何を言っているのか、言いたいのか、わかりますか?こうした文章がどんどん続いていくんです。 ですから、読もうとする側に、それなりの基本的な哲学への準備や謎の言葉を解読するような努力がないと、小説を読むような安易な調子でかかると、それではたちまちに五里霧中な状況に迷い込まされるというわけです。富士山の裾野の広い樹海の中に、一人でぽつんとおかれてさ迷うような状態になるんです。 そうした関係ですから、結局、達磨大師のように壁に向って10数年といったようなことになるのは、これはもう必至のことなんですね。壁に向かっての発信です。 前回紹介したように『これから先の展開は、この上もなく抽象的であり、難解である』と感想を残していますが。その途中には『あきらかに、ここでもまたヘーゲルにとっての主要な点は諸移行をしめすことである。一定の見地からは、一定の条件の下では、普遍的なものは個別的なものであり、個別的なものは普遍的なものである。・・・」(『哲学ノート』P148)、と全体として大事だと思われる観点をコメントとして残しています。 2、次いで、第3章「推論」まで飛ばして、「推論」からは5か所の抜粋しています。その途中でカント論に対する批評を残しています。「判断」は飛ばしています。 一つは、すでに学習しましたが、第三巻の冒頭に序論として「概念一般について」(P5-30)を書いています。いかに「概念」ということの理解が大事なことかを予備的に解明してくれています。それがスピノザやカントをの批判の上にたったものであるかを論証しています。そうした序論の意味が、ここで生きてきます。 二つ目には、前回紹介した「区分」(P31-34)で、概念について書いています。 三つ目は、第一篇「主観性」の冒頭部分ですが、P35-36、で「概念」について案内してくれています。 四つ目は、第一章「概念」の冒頭のまえがき部分で「概念」について案内してくれています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[本棚で見つけたこの一冊] カテゴリの最新記事
|