マルクス『経済学・哲学手稿』3 フォイエルバッハ論
今回の第49回総選挙のその後ですが。
私などは、公示日あたり時点での政権交代への期待と、10月31日の選挙結果とでは、大きな認識ギャップがおきてます。さらに選挙後には「野党共闘で、選挙で負けたのは、共産党などと一緒にやったからだ」などの野党共闘の否定論が、選挙の最中もさることながら、さらに選挙が終わってからも、政権与党をはじめ、労働界の一部からも、メディアからも、それこそ大合唱されているわけです。まぁ、それだけ、現実的な脅威となっている、それを恐れていることの証なんでしょうが。
それが目下の現実の綱引きというか、打消しのための泥が投げかけられているわけです。
これが政治ですから、これを傍観しているわけにはいきません。
こうした現状を打開するには、いろいろな課題があるとおもいますが。
私などは、その課題の一つが科学的社会主義の学習と思っています。
なにかそれは突拍子もないように感じられるかもしれませんが、今の現実を前にすすめていくには、哲学的な世界観と方法を学習すること、その習得が大事になっていると思っています。
それは、なにか特定の党派レベルの問題ということではなくて、国民的な民主的な共同をつくっていく上で、全体にとって必要な理論的努力であり、必要な課題になっていると思います。
さてそうしたことで、『経済学・哲学手稿』の「ヘーゲル哲学批判」の学習ですが、
今回は、その初めにあるマルクスのフォイエルバッハ論です。
国民文庫版(藤野渉訳)では、P205-11の7ページ分です。
前回も紹介しましたが、この学習にはエンゲルスの『フォイエルバッハ論』が大事だと思います。
一、今回のフォイエルバッハについての7ページですが、その概観は論点が3つあると思います。
(だいたい、原文の趣旨を紹介すると次の様になります)
1、マルクスは「フォイエルバッハは、ヘーゲルの弁証法にたいして一つの真面目な、批判的な態度をとったところの、そしてこの領域で真実の諸発見をしたただ一人のであり・・・」と総評しています。
ヘーゲルの弁証法に対して、他の青年ヘーゲル派の人たちは問題意識がなかった。これに対して、フォイエルバッハだけが意識的な態度をとった、と。
フォイエルバッハは、『哲学の改革のための暫定的テーゼ』(1842年)のなかで、また詳しくは『将来の哲学の根本命題』(1843年)で、ヘーゲルの弁証法および哲学を萌(きざ)し的に転覆してしまった。
マルクスは、フォイエルバッハがヘーゲル弁証法を転覆した後でも、それでもヘーゲル弁証法にたいする検討が必要なんだと指摘しています。
2、フォイエルバッハがはたした偉大な功績として、マルクスは3点あげてます。
ア、哲学(ヘーゲル哲学)は、思考の中に持ち込まれた宗教(教条)であり、人間的本質の疎外の一つの現 れだとのことを証明したこと。
イ、真の唯物論と現実的な科学に基礎をおいたこと、というのは人間の人間に対する社会関係を理論の根本にしている。
ウ、ヘーゲルが絶対肯定とする否定の否定にたいして、自立的で自分自身にもとづく肯定を対置している。
―以上の3点を府フォイエルバッハの業績としてあげています。
3、フォイエルバッハによるヘーゲル弁証法のとらえ方の特徴について指摘しています。
フォイエルバッハは感性的に確実なものからの出発を基礎づけて否定の否定の弁証法を哲学の関係でしかとらえていないが、ヘーゲルはいっさいの存在に関係する問題であり、歴史の運動に対しては抽象的・論理的・思弁的な表現を見出したに過ぎない。
二、マルクスがこの『経済学哲学手稿』を書いたのは1844年で、26歳のときのこと。この前年の10月にはプロイセン(ドイツ)国家が反動化したことから、政治思想の自由を求めてフランスのパリに移って(亡命)していました。
一方、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』を書いたのは1886年のこと。1883年にマルクスが死去して、その遺稿集を整理していて、これらの文章を見つけたことによります。これらの新たな世界観を確立していく過程を記録した遺稿は、『経済学・哲学手稿』にしても『ドイツ・イデェオロギー』にしても、その時の事情で出版されずに、人にはまったく知られないままほこりをかぶっていたんですね。
エンゲルスが、この若いころの努力をみつけて、当時の新たな世界観を確立してきた過程について、あらためて紹介しなければと思うのは当然ですね。しかし、当時の文章は、未熟さもあり格闘している最中のものでしたから、抽象的だし長いし、理解しにくいこともあり、そのままではとても出せなかった。それでエンゲルスは、その後の42年間をへて、フォイエルバッハの歴史的な評価もふくめて、その中身を分かりやすく簡潔にまとめたものが、1886年の『フォイエルバッハ論』となったわけです。
だから、この問題を探っていく上で、私たちは大きなプレゼントをもっているわけです。
またここに、この『手稿』の制約があると思うんです。
当時の時代にあっては、マルクスとフォイエルバッハは同じようなグループにあり影響しあっていましたから、変化の過程にありましたから。後年においてその歴史的な明確な評価ができるものとは違って、議論によりいろいろな可能性をもっていたし、可変的な関係をもっていたように思います。そうした中での当時の見解なわけですから、これを完全にすっきりと理解しようとするのは、容易なことではないとも思っているんですが。
三、マルクスのここでの論点の中にある批判ですが、その課題を私なりに上げてみると。
1、ドイツの古典哲学は観念論を歴史的な背景にしていた。ヘーゲルがベルリン大学で大きな影響を影響を与えていたけど、フォイエルバッハ以外にはヘーゲル哲学にまともに向き合おうとしてなかった。ヘーゲルの観念にとらわれたままだった。
2、フォイエルバッハだけが観念論の圧倒的な世界の中から、『キリスト教の本質』(1841年)からでしょうが、唯物論の立場を明確にする。どうしてこの圧倒的な観念論の世界から唯物論への移行がおきたのか。
3、その唯物論という立場ですが、フォイエルバッハの場合は、感覚論にたつ18世紀フランス唯物論の特徴を引き継いでいた。この唯物論の基本的な考え方とはなんなのか、その唯物論にも様々な歴史形態があるということですね。マルクスの場合は、この『経済学哲学手稿』の前後から弁証法的な唯物論をつくりあげることにすすんでいったわけですが。
4、宗教は「人と人との関係」からとらえようとするフォイエルバッハの立場ですが、唯物論ではありますが、方向としては大事な社会観への萌芽をもっていますが、その後その方向は発展できなかった。マルクスたちは、この葛藤の中から、社会観・歴史観として新たな唯物史観を確立していくことになるわけですが。
5、ようするにフォイエルバッハの場合は、ヘーゲル弁証法に対する理解ですが、批判的な意識はもったけれど、結局は弁証法というものをとらえきれなくて、批判することができなかったということです。
こうした問題点が、必ずしもすっきりとしていない論述の中には含まれているとおもいます。
『経済学哲学手稿』については、様々な研究者が解説を書いていますが。
だいたいは「私はこの文章の理解を、私流にはこう考える」といった解釈論が多いとおもいます。客観的に中身のもっていることがらを引き出そうとするのではなくて、その人の自己流の勝手な恣意的な見解を述べていて、あたかも自分こそ理解したかのような態度をとっている。そんな著作を多々みかけるように思います。
まぁ、真理の探究というのは客観的な接近ですから、学術として議論するなかで真相に接近してゆけるとおもうんですが。そうした議論の場がどういう歴史的事態になっているのか、私などにはわかりません。
勝手な意見の貼り付けではなく、そのものの真理を探る努力なら、それなら傾聴に値するんですが。
四、最後にもう一つ、マルクスのメモを紹介しておきます。
「1845年 フォイエルバッハにかんする11のテーゼ」ですが。
これは、唯物弁証法がどのように考察されてつくられたのか、それを示す記録になっていると思います。
唯物弁証法という考え方を、積極的にそのものを語っている貴重なものじゃないでしょうか。
これをエンゲルスは「新しい世界観の天才的の萌芽が記録されている最初の文書として、はかりしれないほど貴重なものである」(『フォイエルバッハ論』のまえがき 1888年2月21日)と評価していますが。
ようするに、科学的社会主義の思想というのは、ドイツ古典哲学の発展の必然性の中からつくられてきたものだということです。何か勝手な恣意的な理屈ではなく、人類の科学の遺産であり、大道の中からつくり出された産物だということです。
ただし科学ですから、真剣に科学として扱って、学び努力して習得してこそ、本来の力を現実的に生かせるということ。ただあんのんとして、ないし奉って待っていたって駄目だということです。
さて、今回はここまでです。
次回は、第二部分の「ヘーゲル哲学の総論について」です。