『経済学哲学手稿』8 ヘーゲル弁証法について
師走のみかん農家は、収穫と販売で大忙しでしたから、『経済学哲学手稿』学習も断続しており、再整理させてもらいます。
一、まずヘーゲル弁証法の成果についてです。
ヘーゲルが1831年に亡くなってから、ヘーゲル哲学の影響は広がったものの、これを真に批判したものは無かったようです。フォイエルバッハが1841年『キリスト教の本質』等で唯物論の立場から批判しましたが、弁証法については批判出来ていなかった。
そうした中で、マルクスの『1844年経済学哲学手稿』ですが、これが初めて本格的にヘーゲル哲学・弁証法を批判したものだったようです。それは新たな世界観、唯物論的弁証法を確立することになるわけですが、それがどのような考察過程だったのか、それを記録したのがこの『1844年経済学哲学手稿』になるわけです。
後年、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』(1886年)を書いていますが、そのもとになっている著作の一つなんですね。
そもそも弁証法とはなにか。近代で弁証法を最初に取り上げたのはヘーゲルですが、この弁証法の中身をどの様に理解するかとの点では、様々な解釈がなされていますが、真に実のある理解・批判が出来ていなかったとマルクスは判断しているわけですが。
それでは、マルクスはヘーゲル弁証法をどの様にとらえていたのか、これがここでの問題です。
マルクスは、ここでヘーゲルの弁証法について紹介しています。
「ヘーゲル現象学とその終極成果における偉大なものは、・・・」(国民文庫版 P216)ですが、ひと言でいうと「運動させ産出する原理としての否定性の弁証法」だったと。
もちろん、このひと言だけでは、それが一体どういうことなのか、その中身はわかりません。
マルクスは「その中身は」と、次にヘーゲル弁証法の成果を8行にわたって紹介しています(P216)。
(マルクスが弁証法を直接にあえて述べている個所というのは少ないと思うんですよ。大前提になってますから。しかし、ここは26歳のマルクスが本格的に論じている原点的な箇所です。
同様のことを『経済学批判(書評その二)』(1859年)で述べてます。さらに1873年『資本論』の第2版のあとがきでも述べています。要するに、ヘーゲル弁証法はつくりかえは必要だけど、弁証法そのものに対する認識、積極的な評価というのは、マルクスの一貫した世界観的な立場になっているんですね。
ただし、ことがらを洞察したことと、それを理論的に明確な形にまとめること、さらにそれを適用することとでは、認識の段階・過程としては異なるでしょう。その間には、そうしたことをなしうるためのいろいろな努力が必要だったということなんですね。)
マルクスのここでの説明は文庫本で8行と短いものですから、それを読んでいただくことが、一番手っ取り早いんですが。しかしただ読む・暗唱するとの態度では理解したとは言えません。ですから、以下私流に中身をとらえかえしてみました。
「ヘーゲルは労働の本質をとらえている」とマルクスは指摘しています。
それはどういうことか。
一つは、ものごとを「結果的事実」から見るだけでなく、それがつくり出される「過程」からとらえることが大事だと。人間のつくり出した結果を見ること、そのつくり出した過程としてとらえることに、大きな違いがあるというんです。写真と映画の違いです。
(どこかの国の政治家の様に、自分にとって都合の良いある一面だけを見るだけで、全体をバラ色に美化するような見方ではダメで、全体の関連や流れの中で事態をとらえる必要があるということ。そうでないと本質はとらえれないと)。
さらに、人がつくりだしたものは、目の前に結果としてある。それは、あくまで人がつくりだした(労働した)ものなのに、それが外的なものになることによって、それをつくり出した人にとっては疎遠なものとしてあらわれる。抑圧されるような外的なものになる。
次に、人間がつくりだしたものを確認するということは、そのことは、その「外的な」「疎遠な」な関係を克服することでもある。対象物をつくり出すということは、その外的対象性をはく奪することでもある。この二つの面からして、「対象性を克服する」ということが問題になると。
二つに、そもそも現実の人間というのは、こうした過程の積み重ねの歴史によって、今の現在の社会が出来ているんだということ。
そこには社会観や歴史観の基礎となることが関係してくるとおもいますが。
さらに、この過程では、一人の個人と類的な人の力との関係・相違が問題になります。
たとえて言えば、一人の個人が一人で自動車をつくり上げるなんてことはできません。しかし一人の人が部分的にかかわることで全体の力によって自動車がつくられている。また電気釜でご飯を炊いている各家庭ですが、その個人がファラデーの電気理論をしっているわけじゃありません。それを知らなくてもご飯を炊いており、普通に用をたしているんです。歴史の過程による結果であったことが、今の暮らしに自然の様になっている。
ようするに、人の労働というのは、たしかに一人の個人がすることなんだけど、しかしそこは類的な(社会的歴史的な)手段や素材で働きかけており、それにより今日の歴史社会の全体の結果をつくり出している。そこには人が意識していなくても、人間の類的な諸力がはたらいて、結果をつくっている。
三つには、しかしこうした個と類(全体)との関係は、個人からしたら全体はあずかりしらない、外的な、疎遠な、類的な力でもあるわけなんです。ようするに、個人にとっては、自分がつくり出しているにもかかわらず、大きな疎遠な類的力に苦しめられるわけです。
ヘーゲルの疎外の思想のなかには、その疎外を克服する、疎外された力をとりもどす課題を提起していると。この点にマルクスはヘーゲルの積極的な意義があるということを提起しているんじゃないでしょうか。
これらが、マルクスがヘーゲルの弁証法の成果として、ここで指摘している点じゃないでしょうか。
さて、ここからは余談ですが、
1、「弁証法」については、哲学書ではいろいろな説明がなされます。よく「対立物の闘争」「量から質への転化」「否定の否定」などの三つの法則として解説されているのを見ます。確かにヘーゲルは『論理学』第三巻でそうしたことを言っているんですが、しかし実体というは、いろいろな理解や説明の仕方が出来ると思うんです。この三法則でわかったような気になっては単純すぎると思います。
ここでもヘーゲルの弁証法観の一つの形が紹介されています。
私などにとっては、こうした紹介は耳新しいことなんです。これもまた弁証法の内容についての、貴重な考察があるとおもいます。実態をつかむには、いろいろな形態と本質をつかむ必要があると思うんですね。私などがあえてヘーゲルの学習をすることの必要を感じるのは、弁証法を生き生きとつかむためにそれが必要だと感じるからなんですが。
2、もう一つ、ここでの「労働」や「疎外」の理解と関連して思うんですが。
かつて、私などの学生時代に「疎外」論が流行しました。
ここには、この26歳のマルクスの叙述ですが、もとになるヘーゲルの叙述も難しいですから、それを批判する文章として理解するのが容易ではありません。
そうした事情も一因になったかと思いますが、かつての「疎外論」の特徴の一つに原典で説かれていることとは別の、自分勝手な解釈を原典の真意だとして押し着せるような解説もあったように思います。
そうした問題の見極めが求められているとおもいます。
その理解の難しさは確かにあるんですが、ヘーゲル弁証法の積極的評価について、この本文(国民文庫版のP216)の8行なんですが。
一つの方法として、マルクスの言おうとしていることを、ここからだけで理解しようとするは無理があると思うんです。これらを理解するには、たとえば前節の「疎外された労働」や「私的所有と共産主義」において、そこで具体的に検討されている事柄についても、全体として見ておく必要があると思っています。
そうしないと、そこだけから判断しようとすると、勝手な思考をこねくり回すような勝手な解釈論におちいりやすいとおもいます。全体の流れのなかで見ることも正確に理解するには大事になっているとおもいます。ここで問題になる「労働」や「疎外」ということ、この意味もこうした努力によって、見えてくるんじゃないかと思っています。
以上が、ヘーゲル弁証法のもっている積極的な内容-「産出する原理としての否定性の弁証法」です。
大分長くなりましたから、今回はここまでです。
次は、「二、このヘーゲルの弁証法がもつ「一面性」と「限界」の問題です」。
肯定的な理解を全面的にしようとすると、その中から否定性が出て来ると。
ヘーゲル弁証法の問題点がどこにあるのかという問題です。