4528437 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

みかんの木を育てる-四季の変化

みかんの木を育てる-四季の変化

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Calendar

Profile

はなたちばな3385

はなたちばな3385

Comments

Favorite Blog

横須賀市浦賀の旧跡… New! jinsan0716さん

家庭菜園のスイカ 豊田年男さん

サツマイモの植え付… ケンタロー (la joie de vivre)さん

軽井沢発地ベリー園… hotchi-berryさん
素人果樹栽培と特選… 桃_太郎さん

Keyword Search

▼キーワード検索

Rakuten Card

Freepage List

Headline News

2022年11月03日
XML

​ヘーゲル『法の哲学』31「世界史」徒然​なるままに

ヘーゲル『法の哲学』最終章「国家」、そのしめくくりは「世界史」です。
10月9日に、その「世界史」の前半の福田静夫講座があったんですが、
今回はその感想です。



『法の哲学』の「世界史」は、
前半が歴史理論(第341節-353節)で、後半がその世界史像(第354節-360節)です。
合わせて20節といたって短いんです。

しかし、ヘーゲルはこれと並行して『世界史の哲学講義』(『歴史哲学講義』)の782ページの講義をしているわけですから、この『法の哲学』「世界史」というのは、そのごくごくエッセンスなんですね。
その短いエッセンスにこめられている中身を読み解くということは、簡単なことではないんですね。
そこを、福田静夫先生が長年の研究にたって解説をしてくれてるんですから、貴重なプレゼントなんですね。
しかし、残念ながら聞いている私の側に理解の制約があって、その内容の理解は容易ではないんです。
したがってこれは、あくまで私が勝手にいだいたところの感想なんです。

一、まず「世界精神」が提起されてます。
ヘーゲルは歴史哲学(世界史論)として、世界精神というものの存在を想定しています。
洋の東西、昔から今日までというのは、この世界精神が展開したものだと考えています。
客観的な概念の存在ということで、ヘーゲルの特徴的な思想です。
世界精神は、東洋的治世-ギリシア的治世-ローマ的治世-ゲルマン的治世のかたちをとる、と。
精神の世界史を研究しているんですね。じつに壮大な試みじゃないですか。

私などは以前に『歴史哲学講義』(岩波文庫)の「序論」部分を学習したことがあります。ブログでそれを発信したんです。

エンゲルスは『フォイエルバッハ論』で指摘しています。
ヘーゲルはこの中の随所で「発展をつらぬく糸筋を発見し、確認しようと努めている」と。

例えとしては、子どもが大人になっていくような、世界精神の発展には歴史的、民族的発展の段階があると主張しているんです。

「東洋的治世」の特徴づけをみると、いまの中国の政治などを見ると、ヘーゲルの指摘には当たっている面も感じるんですよ。中国だけでなく、アジアでは、北朝鮮でも、ミャンマーでも、似たような封建的な反民主主義の問題が深刻になっていると思います。いや日本についてだって、あたっている面がある。

しかし、私たち東洋世界の日本に生きている者としては、全体的なこれらの発展をどの様に見るべきか。
特徴は絶対的宿命ではないと思うんですね。他の治世から何を学んで、東洋的な封建的な治世の特徴からどの様な努力により、新たな発展をつくっていくか。当然ながらそこに生きる私たちにとっては、当面の現実課題になっているわけです。

ヘーゲルは歴史的な世界精神の発展を、客観的な概念としての世界精神がしめしている配置図のようなものとして、固まった特徴のように定まってるかのように描いてますが。そこのところが、問われるところじゃないでしょうか。

二、実際の問題として、日本の近代史ですが、その東洋的治世の封建制の遺物との闘いをその性格としてもっていたんじゃないでしょうか。

福沢諭吉の『学問のすすめ』もそうですね。夏目漱石、河上肇、宮本百合子など、多くの心ある文芸が課題としたこと。自由民権運動や大正デモクラシー、また戦後民主主義の社会運動が課題としていること。憲法や議会の設立を求めたり、自国の尊厳、独立をもとめる政治の運動を見れば、それらはその時々において、どの様な障害とぶつかり合っていたのか。治安維持法などと民主的思考のぶつかり合い、この勇気と犠牲の中で今の私たちがある。これらの歴史的努力というのは国民的な栄光じゃないでしょうか。

そうした歴史の中で、現在の課題というものをとらえ返す必要があるんじゃないでしょうか。
ヘーゲルはなんたって200年前の人ですから、私たちとはだいぶ離れていることがあることは確かです。それでも後進的なプロイセンの中で、新たな進路を探ることから『法の哲学』「世界史」も研究していたんじゃないでしょうか。
そこには、私たちの今の課題とも、重なってくる面があるんじゃないでしょうか。

三、それと、ヘーゲルとマルクスとの関係ですが。
ヘーゲルは諸民族の歴史的発展ということを、世界精神の発展としてみてます。その精神的な各段階の特徴を探ったわけですが。ではその民族精神の特徴はどこから生じてきているのか、それは市民社会の発展の土台を調べる必要がありますよね。マルクスの唯物論的歴史観への考察の道というのは、ここにあるじゃないですか。
一般論で「正しいだ」「間違いだ」とか言う人がいますが。その一般的な方法をもって、どの様な研究・努力が実際に行われてたのか、そこでこそ、その人の努力ということがはかられるわけです。あれこれ勝手な評論をする人たちは大勢いるわけですが、はたしてその人たちは『資本論』や『論理学』『法の哲学』「世界史」の探究努力に匹敵するような努力を、それぞれの世界・分野、道・生き方においてしめしているんでしょうか。課題は提起されているんです。そのための努力することが、この二人によりその後の人たちは歴史的に要請されているわけですね。

もっとも、
「青年おいやすく、学成り難し」ということも、確かなんです。

だいたい人間は、歳をとって体の方は衰えていきますが、客観的な精神というのは、変わらない鮮度と現実性を発揮していくものと、私などは勝手な、かなり乱暴な推測をしています。というのは、なくなった祖父や祖母ですが、いつのまにか自分の外見上はその世代になっちゃっている。大人の外見から子どもごころに想像していた大人像ですが、自分がその年になってみて、かつてとは違って、実際の精神はそれほど異なったものじゃないんじゃないかと思うようになっています。

また、ヘーゲルやマルクスですが、その方法と学問の成果からして、永遠にフレッシュで確かな布石を、成果として残してくれていると思います。解釈はいくらでもできるんです。問題は、時・所・具体性において、前にすすめることを努力しているか、だと思うんです。

四、しかし、せっかちに先を急いじゃダメだと思います。

福田先生の講義から一点だけ紹介します。
第343節の注釈に関連してなんですが。その最後の部分なんですが。

ヘーゲルがカントについて論及しています。
カントの『永久平和のために』は、国際連盟や国連がつくられることを、理性の道理的発展からして必然であることを、この短い冊子の中でカントは素晴らしいことを推察・予告しているんですが。

これに対してヘーゲルがここで批評しています。もちろんそれを積極的に評価していることは前提なんですが。

ヘーゲルの注釈での論及ですが。
「彼らが摂理とか摂理の計画とかいう表現で、或るより高きものの支配についての信仰を表明しているにしても、彼らがやはりはっきりと、摂理の計画を自分たちには認識しがたく把握しがたいものであると称している以上は、このような信仰を表明することこそが、いまだかつて満たされたことのない諸々の観念のままに止まっていることには変わりがないのである。」と。

このヘーゲルの論及の意味が問題です。
それにつけられている注なんですが、カントとヘーゲル、二人の態度の違いを指摘しています。

注『カントは『永久平和のために』第二章第一追加条項のなかで、「この摂理をわれわれは、・・・認識しうるのではなく、・・・あるいはまた推論しうるものでもなく、・・・ただ臆測しうるにすぎない・・・』といっている。


わかりますか。
ヘーゲルのカントに対する批評には、ヘーゲル自身の強い確信が、理性(道理)が実現していくことに対する信念が表明されているんですね。

こんなことは、さらりと読んだだけでは、読み取れないですよね。
これが長年にわたりヘーゲルを研究されてきた福田先生ならでわの、指摘する論点の一つなんです。

五、それと、もう一つ、真下信一氏がこんなメッセージを学生たちに残しています。
真下信一氏は、ヘーゲル研究者であり、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』の訳者でもあります。

『一人の研究者にとって、これほどまでに分化し、それぞれに深くかつ内容ゆたかになった学問の各分野に、多少とも百科全書的に通じるなどということは、アリストテレスやトマス・アクィナスや、さてはヘーゲルほどの天才をもってしても、今日ではとうてい、望みえないところである。しかし、だからといって、個々の研究者なり学生なりが自らの専攻する狭い学問範囲にとじこもってじ余の広い学問領域のことに無関心でいてよいということにはならないし、さらには自らの研究やその成果といろいろな仕方で密接にかかわっているところの社会生活の諸分野のことに目を閉じることは許されないだろう。許されないというのは、一つは当の専門的学問そのものの発展を期する理論的関心からしてそうであるし、また一つには社会的福祉の増進を願う道義的人間的関心からしてもそうなのである。』(『時代に生きる思想』(新日本新書 1971年刊行より)


これもまた、戦前の野蛮な思想弾圧の荒波をくぐってきた哲学者の、気骨ある探究をしてきた人が、戦後に若者たちを励ます言葉として残した言葉だと思います。

エンゲルスが『フォイエルバッハ論』で指摘してますが、ヘーゲルが挑戦しようとしたことは、いかにヘーゲルが努力家であったとしても、一人の仕事としては無理なことなんですよね。

今回も、ヘーゲルの「世界史」の本題から、大分それた感もありますが、
講義を聴きながら感じたことを、「徒然なるままに」ということで、ご容赦願います。

いよいよ、11月13日は『法の哲学』講座の最終日です。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022年11月03日 18時46分41秒
コメント(3) | コメントを書く
[本棚で見つけたこの一冊] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.