「日本共産党の百年」史を読んで
日本共産党が「日本共産党の百年」史を刊行しました。
今日は、頑張ってそれを通読したんですが。
タブロイド判というんでしょうか、その57ページを読むというのは簡単なことではないんですが。
この57ページをよむというのは簡単なことではないんですが、
それでも、それを早く読むことは必要なことじゃないか、と思ったんですね。
ものごとには、課題への必要性ということがあります。
私はこれまで、その時々において、
『日本共産党小史』(市川正一証言)、「45年史」、「50年史」、「70年史」、「80年史」を読むことがあったんですが。
同じ「日本共産党史」という事柄をあつかったものですが、
しかしぞれぞれには、その個性が、その歴史が書かれる事情、動機というものがあります。
これは、今回、この「日本共産党の百年」史を読んでの、私などの勝手な感想ですが。
一、タブロイド57ページの歴史書を読むのは、簡単なことじゃないんですが、
その刊行されたことを知って、共産党の事務所に注文しました。280円でした。
それで、とにかく急いで通読するする必要性を、感じたんですね。
もちろん、私の周りにも、すごい多彩なものごと(書籍)を紹介してくれている読書家がいるんです。
しかし、この日本共産党の百年史を紹介してくれることはないでしょう。
しかも、これは「今が旬」なことを、まとめてくれているんですね。
二、私は個人的には、日本の近代史のなかで、日本共産党の果たした役割というものに注目してるんです。
高校時代に生意気な知人がいまして、関東の片田舎だったんですが、50年以上前ですが、蔵原惟人著『芸術書簡』を貸してくれたんです。
ここには、文学なんてものは、まったく知らなかった市井の私でしたから、驚きの世界でしたね。古今東西の、世界の文学を、哲学をどのように読むのか、探究することでアドバイスしてくれていたんです。
ところが、さらに驚くことに、それが書かれたのは1930年代でしょうか、しかも治安維持法で囚われの身となっていて、その監獄の中でメモしていたことだというんです。
『日本共産党の70年史』を読んだとき、戦前のプロレタリア文学史が、かなり詳しくまとめられてました。なるほど、と。これは宮本顕治氏の責任感のなせる仕事だったと感じました。
でも、その時に感じたんです。「唯物論研究会」の歴史、その哲学の苦闘の歴史はどうだったんだ、その記述、総括が弱いじゃないか、と。
なんて、素人の、勝手ななまいきを感じていたんですね。
しかし、それはふりかえってみれば、近代の民主主義的あゆみのなかで、日本共産党の果たした民主主義の歴史的な役割を、それをもっとも総括的にまとめた労作としての『70年史』だったんですね。
三、では、今回の『日本共産党の百年史』の特徴は、どこにあるのか。
私などの勝手な感想ですが、
それは、「今現在というものがどの様なものであり、それがどの様にしてできているのか」、この要因を明らかにしようとした、その試みじゃないかと思うんです。
長い57ページものですから、ボチボチと手の空いた時に読めばいいといった惰性はいただけないんです。新鮮な野菜や、魚と同じです。今という時が、この瞬間にどうとらえるかが勝負なんです。
今ということが、どの様な諸条件によってなりたっているのか。多少なりとそれに問題を感じ、それを変えようとすれば、そこには今どのような諸問題があるのか、ということです。
今の政治的な現実関係が、どの様にあり、どの様な本質的な力と力の対抗関係にあるのか。
早く目を通すということも、力の、努力の一因となるんです。
気の抜けたビールようじゃ、ダメなんです。
志位さんはくりかえし「政治闘争の弁証法」と指摘してます。
それは、この『百年史」の基調とされる問題ですが。
このことはマルクス・エンゲルスが『フランスにおける階級闘争』で指摘し、日本の国政選挙の二連敗から宮本顕治氏が教訓としてひきだしたきたところの『階級闘争の弁証法』ということですね。
これだけでも、しっかり把握するとすれば、確かめなければならないかなりの材料があるでしょう。
四、しかし、ヘーゲルさんは言ってるんですよ。
歴史は史実を探ってそれに近づいてゆくこと、これが歴史家の人たちが課題として抱えている問題だけど、認識というのは「行程」なんだ、と。
ようするに、それらはすべては材料であって、それをどうするかが問題だと。
現実というのは、一定の行程としてあります。
その過程の客観性をしっかりつかむこと。そしてその中にある前進を、あなたでしかできないオンリーワンの歴史的な一歩を、決定的な一歩を、どうつかみとるのか。
そして、どうするのか。
これが『歴史哲学講義』で提起している問題の一つなんだすね。
それは、この間の私などの学習がしめしていることなんですが。
ヘーゲルは1820-30年代にこうした問題を提起してましたが、コレラの流行で1831年に突然死する。
そのあと1840年代に、20代のマルクス・エンゲルスたちが、その成果を探る。
1883年にマルクスが死去して、その遺稿集を目にすることになったエンゲルスは、1888年に『フォイエルバッハ論』の簡潔な形でそのエッセンスを残したんですね。
そしてさらに、レーニンは、1915年の世界大戦の最中ですが、亡命先で必死になって弁証法をつかもうとして、ヘーゲルのこれらの難解な諸著作から学びとろうとしていた。その記録が全集の第38巻に『哲学ノート』として、今日につたえられてるんですね。
これらの問題は、まったく『日本共産党の百年史』とは関係のないようなことがらにみえるんですが、
しかし、私などには、ばっちりと重なって見えてきます。
弁証法-それは自然と社会、人間の思考に貫かれている一般的な法則です。
その一般的な形式な法則を、それをあまたの具体的な諸関係。諸分野の中において、それぞれの人がそれをどの様に適用するのか、そのことが問われているわけです。
五、最後に、まぁ、一つの勝手な感想なんですが。
これは共産党員の人たちにとっては、『百年史』を早く読もう、そして力にしよう、ということでしょうが。
それは、その通りでしょうが。
しかし、私などは、ことがらの本質というのは、もっと大きな問題じゃないかと感じているんです。
今の閉塞な日本。学術もへったくれもない日本。
庶民の暮らしを押しつぶして、戦争への道に巻き込もうとする政治屋たち。
どこへ飛んでっちゃうか、わからない日本。
この今の日本の状況を、少しでもまともな方向に変える理論と力がもとめられている。
それは、国民的な今日の現実課題です。
『共産党の百年史』というのは、
今という国政の状況は、どのような要因によってつくられているのか。
どうやったらそれを変えるのか、このことに対する共産党としての認識の提起だと思います。
早く広く国民に、この問題提起に目を通して、その認識を議論していただきたい。
斜めに読む人もいるでしょう、しかしそれでも討議する必要性があるんじゃないでしょうか。
そして、今を変えていくための、その人なりに、そこから何かしらヒントをつかんで、
正しいとする人も、いやいやそうじゃないよという人も、
とにかく、一人ひとりの、その人の人生に生かして、
少しでも現状をまともな方向に変えていく力を大きくしていゆく。
『日本共産党の百年』史というのは、
国民的には、自らの進路をどう開くのか、それへの一つの提起となってるんじゃないでしょうか。