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カテゴリ:本棚で見つけたこの一冊
マルクスの「ヘーゲル弁証法批判」その10 はじめに、前回と重なりますが、 一、マルクスがフォイエルバッハのヘーゲル哲学批判の業績と評価した三点ですが、 これは、いずれもそれぞれ唯物論の側面について評価したものですね。フォイエルバッハが初めて唯物論の見地からヘーゲル哲学を批判したわけですが。それはマルクスが「真実の発見をした唯一の人であり、真の克服者である」と評価したもので、それはドイツの観念論哲学の圧倒的な流れの中では画期的な一歩でした。 「ヘーゲル弁証法の秘密は、結局、ただ神学を哲学によって否定し、それから再び哲学を神学によって否定することにある。・・・否定の否定は神学である」(『将来の哲学の根本命題』(第21節 P45 1843年) これがフォイエルバッハのヘーゲル弁証法にたいする認識です。この「否定の否定」のとらえ方に、彼のヘーゲル弁証法の理解がしめされています。 それは、哲学の考え方の矛盾としてのみとらえている。つまりいったん否定したあとで、さらにそれを肯定するところの哲学としてのみとらえていた。ようするに、フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法については本格的にとらえることができていなかったということです。 弁証法に対する意識の欠如というのは、フォイエルバッハだけじゃなくて、ヘーゲル学派の全体がそうなんですね。ヘーゲル弁証法にたいして、それを言葉では語ってはいても、その内容についての明確な認識がなかったわけです。口パクでさもわかったような恰好をとっている人って、いまでもさまざまにいるでしょう。
「1、ヘーゲルは、否定の否定を—そのなかにある肯定的な関係からいって、真実かつ唯一の肯定的なものとして—そのなかにある否定的な関係からいって、いっさいの存在の唯一の真なる行為かつ自己実証行為として—解したことによって、彼は歴史の運動にたいして抽象的、論理学的、思弁的な表現を見いだしたに過ぎない。
第一に、ヘーゲル哲学の体系は論理学から始まって、絶対知、すなわち超人間的な抽象的な精神ででおわるから、哲学的精神が張り広げられた、精神の自己対象化だと。その自己を疎外する中で思考し、自己を把握する世界の精神だ。 第二に、論理学は、人間と自然の一般的な本質であり、貨幣のように一般的に通用する抽象的な思考だと。 第三に、くり広げられた精神の外部性は、あるがままの自然だと。それは思考に外的であり、この思考の自己喪失だ。思考は自然を外的に抽象思考としてとらえる。 第四に、精神はおのれ自身にかえってくる思考だ。それは人間学的、現象学的、諸々の精神としてまだおのれ自身と見なされず、最後に抽象的精神のうちに絶対知として眼前に見いだし関係して、その意識的な自己にふさわしいあり方を得るにいたって、おのれ自身と見なされる。その現実的在り方は、抽象だと。 本当にこの中に、まっとうな、注目される、万人にひらかれたすばらしい思想があるというんです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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今回の報告は、私の理解を超えた地平にあります。ウゥーンといった感じです。
昔、学生をしていた時代に「初期マルクス」を勉強(?)した記憶はあるのですが、当時も雲の中にいるような感覚しか思い出せません。何十年経っても進歩していないのですネ。 (2024年03月25日 16時14分22秒)
ありがとうございます。
そのわけのわからないことの責任は、ヘーゲルを検討するために、まずはその説を客観的に、正面に据えなければならない、そのための苦労にあると思います。前代未聞のもんだいをとらえ、そのゴチャゴチャした中にある宝をさぐろうとしているわけで、勝手な解釈が氾濫しているのも、そのためです。 今回、『経哲手稿』の挑戦に3つの材料があります。 一つは、渡政さんの感想の刺激です。二つはかつて東日本大震災後に8回の学習ブログした自分自身の発信記録です。それに加えて、ヘーゲル冊子が縁で、東京唯物論研究会の重鎮が助言を寄せてくれました。これは冊子の中身にふれた感想としては、渡政さんに次いで二人目の、一読しての感想です。 これまではヘーゲル弁証法が歴史にどの様にとらえられるかという問題でしたが、今回はヘーゲル弁証法から唯物弁証法と唯物史観がどの様につくり出されたのかの問題です。自分が生きているうちに挑戦しなければ、これまでの苦労がなんだったのか、それが形にできるか、それとも闇に消え去るか。新聞を見ると、余命もいくばくもないことですから、その分かれ道にいるわけです。 (2024年03月25日 17時25分31秒) |