カテゴリ:子どもの不登校
1年前はどんなことをやっていたのかと、
ブログを見直してみた。 氣歩が演劇部でがんばっていて、 「あらしのよるに」で地区大会に出たのが、 ちょうど、1年前のことだった。 いい出来だったが、あと一息で都大会には手が届かなかった。 氣歩が不登校になったのは、 そのあとだった。 一生懸命にやっていた演劇がひと段落ついて、 中学校へ通う意味が見えなくなってきた。 「普通って何だろう?」 彼女の中にある大きな疑問だ。 適応教室へ通っていると、 先生方は、 一生懸命に、学校へ戻そうとする。 なぜなら、 学校へ通うのが普通だから。 学校へ行けない子は、 問題があって、 かわいそうな子。 学校へ行ける普通の子にしてあげよう。 それが、常識的な考え方だ。 学校へ行かないという選択は、 とてもネガティブにとらえられている。 だから、 不登校の子たちは、自分は悪いことをしているんだと、学校へ行かないことで、 自責の念にさいなまれる。 親も、 何とか学校へ行ってほしいと願う。 不登校のことで、 夫婦喧嘩が始まったりして、 それが、子どもにとっては心の傷になってしまう。 氣歩は、 つらい思いをしている子たちと付き合ってきて、 みんなが普通を求めることで、 心が萎縮し、苦しまなければならないことを、 感じ取っているようだ。 ぼくも偉そうなことは言えない。 長女が不登校になったときは、 普通を求める親だった。 ずいぶんと悩んだし迷った。 しかし、 何がきっかけだったかは忘れたが、 普通信仰から少しは脱することができた。 氣歩の不登校は、 ぼくにとっては、既定路線だった。 これでいいんだと思えた。 不登校の傾向は小学校からあったし、 長女のときの混乱をへて、普通ではない生き方をしてくれる娘たちに、 少しずつ誇りを持てるようになってきたからだ。 1年前から、 ぼくも氣歩も、ずいぶんと成長したなと思う。 順風満帆の中ではなかなか成長できない。 まさに、 「あらしのよるに」ではないが、 嵐があることで、思わぬ出来事に遭遇できて、 新しい自分を発見できるのだ。 長女は奈良の大学へ行っている。 東京にいくらでも大学はあるのに、なんで奈良へ行くのと思ってしまうが、 自分がやりたいことはここにしかないからと、自分で決めた。 頼もしいではないか。 次女は、 勉強は嫌いだから進学しない。 人の下で働くのは嫌だから就職はしない。 じゃあ、どうするの? って聞くと、 とりあえず高校を卒業して、 そのあと、ピースボートで世界一周して、それから考えると言う。 いいじゃないか。 三女は、 不登校と自閉症の子が一緒に学ぶ学校へ進学することを決めている。 「普通の高校なら行かない方がいい」 と、強い意志をもってのことだ。 これも、またすごじゃないか。 そんな普通じゃない道を歩んでくる娘たちをもって、 ぼくはうれしくてたまらない。 いばらの道を歩くことになるかもしれない。 そんな娘たちを見るのは、親としてつらいことだが、 いばらの道は、どこにだってあるものだ。 ぼくは、心配や不安が心に浮き上がってきたとき、 こう自分に言い聞かせている。 「運命を信じなさい」 自分の運命、子どもの運命。 紆余曲折はあっても、絶対に大丈夫なんだと信じること。 信じることで道は開かれていくものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014年11月08日 09時24分57秒
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