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数日前、子ども達と一緒に某ショッピングセンターのフードコートでお昼ごはんを食べていた時のことでした。
小学校低学年くらいの男の子が、トレイに乗せた料理を運んでいる姿が目に入ったのです。 鉄板に盛られた料理なので、そのトレイはとても重いはず。 しかも、傍らにはジュースの入ったコップも。 見ていてとても危なっかしくて、だから私は、ついついその姿を目で追っていたようです。 やっと席にたどりつき、「あぁ良かった」と思った瞬間… テーブルにトレイを置こうとした際にバランスを崩してしまったのでしょう。 滑るように、コップがトレイから落ちてしまいました。 男の子はうろたえながらも、すぐに手持ちのタオル?で床を拭きました。 一生懸命拭いていました。 私は彼の親はどこにいるのかと辺りを見回したのですが、それらしい姿を確認することはできません。 小1~2くらいの子が、ひとりでこんな場所で食事をするとは考えにくいのですが…。 その子も、誰かを探すように視線を泳がせているように見えました。 でも、誰も彼のもとにはやってきません。 後の予定があったため、私達はその場を離れました。 もしかしたらその直後に、彼の親が駆け付けたかもしれません。 その後もずっと、その男の子のことが頭から離れませんでした。 どうしてあの時、離れていたとはいえすぐに手伝ってあげなかったのだろう。 近くにお店の人がいたのに、どうして「あの子を助けてあげて」と言わなかったのだろう。 彼のテーブルの周りには数人の大人がいたのに、どうして誰ひとり手を差し伸べる人がいなかったのだろう。 我が子の面倒をみることで精一杯? 時間に余裕がない? 「大丈夫?」 「おうちの人はいるの?」 「手伝おうか?」 たったひと言の言葉さえ掛けることができなかっただなんて…。 今日の説教は「善いサマリア人」のたとえ。(ルカによる福音書 10章25~37節) この数日間、ずっとくすぶっていた想い。 「愛」を邪魔するものは「自分を守ろうとする感情」「自分を弁護しようとする感情」だという御言葉が、胸に響きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.08.05 19:58:24
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