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テーマ:命と現実と・・(9)
カテゴリ:論理・議論
という意見。
また、刺激的なことを。 (ローズ2004さんの掲示板が中心。&うちの8/18日記。 原文は「そんなに悪いことじゃない」か。) (9/8追伸。別のページに移されたそうです。) よそでやってる話だが、かってに解釈してみますか。 (口実に日記ネタにするやつ) ------------------------------- 確かに人を殺してはいけない、という意味を、互いのルールとして以上の意味でどう言えばいいのかは問題ですね。 その前に、「絶対」とか「おまえ自身の本質をおれが言ってやれる」ということがないと「どうしても殺してはいけない」ということが言えない。 絶対や本質的なものがなければ、それは生き方の流れの結果の一つ。 しょせん、人々はそれをも含んで社会をやっている。 生命保険や交通事故や・・そういうふうに経済システムの一つで対応し、対応した以上は経済の一部として組み込んでいるかのようで。 トラブルで殺したり罰せられたりして両者が社会から退場するのは、経済で資金繰りが悪くなった企業や小市場が退場していくのと似ている、とか。 昔は、「これだけのビルが建つなら人が○人死んでも・・」という言い方がされたらしいです、現場の棟梁の話では。 社会のルールというそれが実態だったり。 また、間接的な人殺しなんか誰がやっているかわからない。 絶対的に殺してはいけないならば、自分が人の死のきっかけになっているかもしれないことをどう考えたらいいのか、でしょう。 人の生が相対的でないと苦しくって生きていられないというのがふつうの感覚だとすれば、「絶対」などとどうして言えるのか、ということですね。 ------------------------------- 絶対である理由 1 教育的に言えば、「それでは人生が浅くなるからだ」と。(欲求) 都合の悪い人を消してすませるならば、都合の悪いことの本当の意味をごまかして生きることになる。 それは、自分の生に対する裏切りだと。 そう思わないのは、成長する意志のない、また馬鹿である。よって教育が必要である。(笑) 2 殺しを認めるとあらゆる社会の基礎が消滅するから。(論理) 3 殺人も「認める」という理知性の過剰は、人の本能を壊すから。(文化的本能かな) それが命への感覚というものだったりするらしい。 この場合、すべての人に通じないのは幻だととらえるか、すべての人が一生をかけても十分に発達するものではないと捉えるかによって、認識基準が変わる。 4 自分が殺されたときには、確かに死は絶対となる。(本音) そういう面・そういう範囲では自分は絶対を考える資格がある。 たとえ、他人がそれとは別の殺人と死の覚悟をもっているとしても、自分は自分の絶対を主張できる。 5 絶対を語る宗教ならいろいろ言えるでしょう。(外国) 6 平和日本の言い逃れが使えなくなるから。(日本) 外国人が絶対いけませんなんて言えるのか疑問だったりする。 ( その意味では憲法の意味は大きいか。 殺したくないという理念のためには、国民が平和ボケなぐらいの方がいい。 そのために、憲法を信心するというのが、筑波大学付属小学の教師だったのだろう。(8/18日記参照)) ・・・・なんてところかな。 (9/13投稿テーマ変更) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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