この英国帝国主義の世紀の間、ドイツや合衆国などの他の国々は、英国の自由貿易帝国主義から自国を防衛するために、重商主義経済政策を追求 していた。合衆国のアレキサンダー・ハミルトンや、ドイツのフリードリッヒ・リストのような重商主義理論家が自由経済学説に批判的なものを書いていたの は、そのような背景の下においてである。
「自由主義革命」が重商主義に徹底的に反対する立場で現れた19世紀中葉までは、重商主義が政治・経済学説において優勢であった。自由主義 経済学説においては、経済界は自律的で政界からは分離していて、それ自身の論理に従って機能する。 この学説によれば、異なる領域にある政治と経済はまだ 関連しているが、お互いに独立している。重商主義者が国家をグローバルな政治経済における主要な行為者と看做すのに対して、自由主義者は個人(生産者およ び消費者)を主要な行為者であると看做す。
重商主義者は、植民地獲得および国際的な競争の場での帝国構築という政策を正当化して、国際的な競争の場は本質的に対立をはらむものと看做 す。その国際的な競争の場において、ある国家が海外の土地を植民地化して資源を搾り取らないならば、他の国家がそれをして、その結果、資源と経済成長の帝 国を創造しない国家が剥奪されると重商主義者は考える。 その意味においては、ある国家の進歩は他の国家の退歩を招くというゼロサム利得の立場で、重商主義者は世界を眺めている。 自由主義者は、個人からなる世界的な競争の場はポジティブサム利得を生み出すものであり、そこでは全ての個人は自己の利益に従って行動し、そうすることで 誰もが得をし、協力および相互依存を育成すると主張する。その意味においては、国際的な競争の場は本質的に対立をはらむものではなく、むしろ協力的で相互 依存的な領域である。そこでは、秩序と安定が、英国の自由帝国秩序や金本位制のような国際的な体制によって支えられる。
重商主義者は歴史を、国々によって為される争いと解決の融合と看做すのに対して、自由主義者は個人および民間活動によって為される行為の意 図的でない帰結の総計と看做す。これは、本質的に歴史が自然のままに進展することを示唆しているようなものである。歴史は計画的にあるいは故意に強力な勢 力によって形作られるのではなく、個人の行為に対する自然の応答・反応に過ぎないと言っているようなものである。これは、経済活動を決定するであろう「自 由市場の見えざる手」という概念を生み出す、自由経済秩序の自然状態という自由主義概念と一致している。
「見えざる手」というアダム・スミスの考えが、個人の富を求め私利私欲で利益を得る民間の個人が無意識に社会全体の利益の手助けをすることになるという考 え方を促進するために使われてきた。 しかしながら、その「見えざる手」はスミスの不朽の名著「国富論」に唯一回だけ使われただけで、文脈を無視して取り上げられた。スミスは、どのように「全 ての個人が国内産業に最大の支援を与えそうな方法で彼の資本を使い、彼自身の国の最大多数の人々に所得と雇用を与える傾向があるか」を議論していた。「国 内産業の支援に彼の資本」を使うことに加えて、民間の個人はその産業にその生産が最大価値であるように指図する」であろう。それ故、個人は「公共の利益を 推進する意図はなく、どれだけ彼がそれを推進しているかも知らない。」 スミスは、次のように説明している。
「海外産業よりも国内産業を支援することを好むことによって、彼自身の安全を意図しただけである。そして、産業にその生産が最大価値であるように指図する ことによって、彼自身の利得を意図しただけである。彼は、この点において、多くの他の事例と同様に、彼の意図しなかった目的を推進するために、見えざる手 によって導かれている。」[13]
スミスは、個人が国内産業を促進する「自然の傾向」として「見えざる手」を概念化した。けれども、その成句は「自己調整市場」の概念を促進 するために巧みに使われてきた。産業は全ての人々に利益をもたらすのが当然なので、規制・制限が少なければ少ないほど、全ての社会は良くなるという風に言 うために利用された。この成句の邪悪な意図での使用によって、「見えざる手」という考えは個人の行為とは別物となり、経済活動の非規制化にこの成句が利用 された。それはスミスの主張とは雲泥の差である。
スミスは「富国論」において次のように述べてさえいる。「同じ職業の人々は、歓楽や娯楽のためにさえ、めったに一緒に集わないけれども、会 話するときには、大衆に対する陰謀、すなわち価格を上げるための何らかの計略で終わる。自由および正義と矛盾しないで発効され得る如何なる法律によって も、そのような談合を防ぐことは全く不可能である。しかし、法律は同じ職業の人々が時々一緒に集まるのを妨げることは出来ないけれども、そのような談合を 促進するようなことは何もすべきではない。増して、それらを必然的にしてはならない。」[14]
労働者の賃金に関する規制を議論し、使用者すなわち「雇い主」と、「雇用者」という労働者階級の間の公平さ問題を解決することにおいて、ス ミスは「立法機関が雇い主と雇用人の差を規制しようと試みるときはいつも、その助言者は必ず雇い主である。したがって、規制が雇用者に有利ならば、それは 常に公正で公平であるが、雇い主に有利な場合には公正でなく不公平なことがある」と説明している。更にまた、「雇い主達が彼らの雇用者の賃金を下げるため に団結するとき、彼らは一般に非公開の契約または協定を結び、ある額以上の労賃を支払ったら、あるペナルティーを受けることを約束する。雇用者が同じ種類 で逆の団結をし(たとえば組合を作って)、ある額以下の賃金に甘んじるならばペナルティーを課せられることを約束したならば、法律は彼らを厳しく罰するで あろう。もし、公平にするならば、雇い主達も同様に扱うできなのだが」とスミスは説明している。[15]
これらのアダム・スミスからの引用文は、スミスの考えについての共通の認識や使用の面において飛んでいる傾向にあるけれども、実際の自由主義経済はそのオリジナルな理論家の意図と雲泥の差のあることを証明している。
1870年代に、主要な欧州の帝国が地球を横断しての帝国主義的振る舞いを信じられないほど拡張すること、すなわち重商主義政策そのもの―資源を奪い取 り、帝国が製造する商品のための専属市場を創造し、経済的競合国からその市場へのアクセス権を奪うために植民地を獲得するという考え方―に着手したとき、 「自由主義経済秩序」という考えが挑戦された。1878年から1913年までに欧州の帝国は世界のほとんどに対して支配を拡張した。特に、アフリカの争奪 戦が激しく、エチオピアを除くアフリカの全てが欧州の権力によって植民地化された。
この「新帝国主義」は、知られているように、欧州の至る所で増殖し、大陸の至る所で銀行業の急速な拡大と、政府を支配する国際金融家の傑出が生じた。[16] 大陸規模の銀行業ネットワークの成長が、「より多くのインフラストラクチャーの購入のために借金をし、利息を支払わねばならない」というシステム、および領土の拡大を刺激したことで、植民地帝国の成長を助長した。[17] これは、海外の市場を見つけて支配し、資本を拡大するために、地球のほとんどを横断して大規模な帝国主義的努力に着手するように、欧州の国々を導いた。