マルクス主義の出現
19世紀に、批判的IPE(国際的/グローバルな政治経済学)学説の発端が、成長中で優勢であった自由主義IPEに対抗して出現した。これ らの批判のうち最も深遠なるものは、カール・マルクスによるものである。マルクスの批判的学説はマルクス主義として知られるようになり、生産手段を所有し ている階級が中心的で最も権力のある階級であり、他の階級を従属的な位置に貶めているというような階級関係に幅広く焦点を当てたものである。マルクス主義 者はまた、資本主義を本質的に搾取的であると看做す。この学説によれば、政界と経済界は行動の分離した領域ではなく、絡み合って内部的に関連していると看 做される。 この学説によれば、国家の目的はそこに居住するより多数の人々に奉仕することではなく、資本家階級の利益を保障、維持、促進することである。 マルクス主義学者はまた、戦争や紛争の性質について、資本主義の拡大的性格に本質的に関係しているということを強調している。その拡大的な性格は、資本家 支配階級の利益を促進することにおける国家の主要な役目の一つだと主張している。
マルクスは彼が資本主義と理解しているものを次のように定義している。:より多くのお金を生み出すために投資されてきたお金であるところの資本によって支配されるシステム。; 資本家社会の内部において最有力な生産は、売るためであるが、生計のための必要性を越えて、我々が今日物質主義および消費として言及するところのものであるという意味において、使用のためではない。; 労働は商品化されていて、したがって人々はその労働を通して売買可能な物資になる。; 交換はお金によって行われる。; 生産手段の所有権は資本家階級に握られている。; そして、様々な資本家集団間の競争は、相互作用の道理である。
マルクスは資本の巡回、どのようにお金が資本に変わるかに、大きな焦点を置いている。お金(M)は、日用品を買うことに注ぎ込まれ、次に労 働力(LP)および生産手段(MP)に投資され、生産の回路を作り上げ、新しい日用品(C1)を生産し、それが売られて拡大するお金(M1)が創造される か、あるいは利益が稼がれる。資本は、このように生産に投資されるお金である。資本主義の本質的に搾取的な性質は生産回路において、特に労働力に関して最 も明らかであると、マルクスは仮定する。
マルクスから離れて
しかしながら、中央銀行制度を調査・理解するならば、資本の巡回のいくらかは論駁されなければならない。中央銀行の機能は、資本の「投資」 ではなく、お金と負債の拡張・創造であり、お金は利子付きで貸し出され、中央銀行の収入の源泉となっている。これは生産的な資本とは呼ばれえない。という のは、その目的・意図が新しい日用品を生産することではなく、労働力や生産手段とも無関係であり、新しいお金はそのような新しい日用品を売ることで生産さ れるのではなく、利益が元々のお金に対する利子から引き出されるからである。これは、議論の前提として、借金の回路と呼ばれ得る。:
M --> L --> I --> M1 --> LID --> DB
M = お金
L = 借金
I = 利子
M1 = 新しいお金
LID = 負債に対する利子支払いのために債務者に融資される新しいお金
DB = 債務者は負債に徹底的に束縛され、債権者の奴隷となる
搾取についてのマルクス主義者の観点によって、借金の回路内において搾取すべき労働はないが、それなら搾取はどのように行われているのであ ろうか? 誰であろうとも、すなわち、個人であろうと、国であろうと、法人であろうとも、債務者から搾取するように借金(あるいは貸付)が設計されているので、搾取 が起きるのである。 この理論的枠組み(パラダイム)内において、階級構造は資本主義制度における全体的な搾取と権力の行使の過程の重大な役割を演じてい るけれども、我々が知っていることであるが、階級構造は資本主義内の支配・圧迫の唯一の攻撃対象ではなく、異論はあるかも知れないが主要な攻撃対象ですら ない。 中央銀行制度の収奪的性質への屈服対象は、個人、国家、および企業である。
中央銀行制度はその発端から次のような役割を演じてきた。産業を独占的にし(このように、アダム・スミスの「自由市場」および「競争」の概 念を無効にしている)、国家を武装させ(戦争および征服・侵略に融資し)、経済界と政界の関係者を総称的な支配階級に融合させる(中央銀行自身の二重の性 質、すなわち政府本体の権威と権力を保持しつつ、関係者を代表し民間の個人の所有権に服従するという性質に即して作られている)。このように、支配階級そ のものは、その少数のエリートが形成されている社会組織であり、その人数からして階級と称するには少ないぐらいである。なお、階級は普通は国内での階級で あるが、このエリートは事実上において国際的である。
国の中央銀行は独占企業および帝国主義的政府に融資するが、両者は中央銀行に対する借金による束縛から作り出されている。 商業/産業エリートと政治エリートは彼らの利益を融合する。すなわち、政府は産業界が儲かる効果のある帝国主義的な政策を追求する一方で、産業界は強力・ 強固な政府の構築を支援する(そして、公職を離れるや否や、政治エリートのために居心地の良い勤め口を提供する)。 このように、国家の政治的支配者と融合することによって、国家の支配階級、すなわち資本家あるいは生産手段の所有者が形成される。 一方が他方を代表したり打ち負かすことはなく、むしろ両者は関係者のために仕え、極めて少数の国際的なエリートによって利益を通して所有される。
人は尋ねなければならない。:もし、中央銀行制度の出現がなかったとしたならば、資本主義はどのように見えただろうか?
没収による蓄財
マルクス主義者の説を論じるにおいて、私はその理論的論点および見解を全面的に擁護しようという気はない。しかしながら、マルクス主義に言及することは極 めて重要なことである。なぜならば、歴史上および現在、それは資本主義制度に対する批判の非常に強力な源泉であり、その重要性は過小評価され得ないからで ある。更にまた、学説として、資本主義制度がどのように機能するかについての多くの正確で重要な様相を見分けるという点においても、言及することは重要で ある。その理由のため、その論評の多くは、先見の明があり、正当であって、現在もそうである。
マルクスの学説においては、蓄財という性質は、それが二重の特質を有しているという点において、非常に重要な役割を演じる。その性質の一つ は、拡大される生産に伴う蓄財として知られているが、日用品市場と生産(資本の回路)に関係していて、そこで労働の過程を通して作られる。蓄財の他の性質 は没収による蓄財で、それは通常、生産に関わる資本家と非資本家の間の関係の面から構成されている。これは誰かから何かを没収することに由来する蓄財であ る。大西洋の奴隷貿易は没収による蓄財の一例であり、アフリカ人は彼らの生命と自由を没収されたのである。 植民地主義はまた別の例であり、そこで資源が 搾取されたが、その国家からその所有する資源が没収されたということである。
没収による蓄財というマルクスの考え方を中央銀行制度に拡張することは、多分役に立つ。資本の回路に組み込まれておらず、したがって生産拡 大に伴う蓄財と無関係な中央銀行は、没収による蓄財の例をもっと良く表している。お金は利子付きで貸し出され、債務者は必ずしも完済するとは限らず、利子 の支払いと債務による束縛のために自由と富を没収される。 借金とは正に奴隷状態の別の言い方であり、それ故、中央銀行制度そのものは没収による蓄財システムを通して機能する。
しかしながら、没収による蓄財の型に嵌まった理解は、それを資本家と非資本家の間の相互作用として描写し、そこでは資本家が生産過程におい て非資本家から没収するという見方である。しかしながら、中央銀行は資本主義制度の頂点であり、その権力の源であり大通りである。だから、資本家と非資本 家の間の相互作用とは、とても言えるものではなく、中央銀行とお金を必要とする全ての活動の間の相互作用なのであり、資本主義制度全体を含んでいる。この ようにして、産業/商業、政府/国家、および個人/人々は、借金による束縛を通して自由を没収される。これは単に階級闘争説あるいは階級中心説で説明され るようなことではなく、むしろ、あらゆる、そして全ての形においての全ての個人、個性、自由に対する攻撃である。 階級構造が創造されたのは、人々を階級で仕切ることによって一つの階級を他と対抗させるためであり、そうして大衆をより上手く支配し操作しようとするもの なのだ。 それは人々を分断統治するための戦略である。上位の資本家階級も含めてであるが、各階級に同じような考えを持たせ、したがって各階級に集団的な行動を取ら せようとして、階級構造なるものが主張されたのである。全ての階級における自由思想を持った個人がその標的である。個性が商業、政府、および社会から全体 として除去されようとしたのである。