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ショーン007aの日記

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2016年02月09日
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カテゴリ:読書

原文:http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=14552

 

ロシア、石油、および革命

 

1870 年代までに、ジョン・D・ロックフェラーのスタンダード石油帝国は、合衆国において、また多くの諸外国においてさえ、事実上の独占を勝ち得た。1890年 に、オランダ国王がロイヤル・ダッチ石油会社と呼ばれる国際的な石油会社の創立のために、彼の恩恵を与えた。その会社の主な創立目的は、オランダの植民地 であるインドネシアからの灯油を精製販売することであった。 また1890年に、シェル輸送貿易会社という英国の会社が、石油を輸送する目的で創立され、 その会社の「最初の仕事は、スマトラからのロイヤル・ダッチの石油を至る所の目的地に輸送することであった。」 そして、最終的に「それら二つの会社は合 併し、ロイヤル・ダッチ・シェルになった。」[1]

           
その当時の他の大国や帝国に遅れて、ロシアにて産業革命が起こった。1870年代まで、「バクー油田を含むロシアの油田は、欧州におけるス タンダード石油の優位性に挑戦していた。天然資源におけるロシアの優位性は欧州における戦略的な力のバランスを混乱させ、大英帝国を困惑させた。」 そのような次第で、大英帝国は、最初はジュリアス・ロイター男爵を通して、中東、特にペルシャ(イラン)での石油探査を始めようと努めた。ロイター男爵は ロイター通信の創始者で、イラン国王から探査権を得ていた。[2] 莫大な量の石油を発掘しようとするロイターの試みは失敗し、ウィリアム・ノックス・ダーシーという名前の男がペルシャで先頭に立った。 
         
19世紀の中葉にはもう、「ロスチャイルド家は、世界中でそして全歴史上、最も富裕な家族であった。その5人の国際銀行家は、最初の多国籍 企業の一つを構成していた。」 アルフォンス・ロスチャイルドは、「ウィリアム・ノックス・ダーシーが大英帝国のためにペルシャの石油利権に取り組み始めるよりも少なくとも40年前に、 ロシアの石油に莫大な投資をしていた。ロシアの石油は、アメリカの独占企業であるスタンダード石油に対抗する欧州企業として1860年代に既に出現してい たが、[ロスチャイルド]男爵のお気に入りのプロジェクトであった。」 1880年代初頭において、ロシアの石油が豊富な地域である「バクーにおいて、ほ ぼ200のロスチャイルド精製業者が操業していた。」[3] 
           
1880年代半ばには、「ロスチャイルド家は、欧州へだけではなく極東へも含めて、第一の石油供給者になろうと身構えていた。」 しかしな がら、「バクー-バトゥーム鉄道は、生産されていた量の原油を輸送するのに既に不適切だと分かっていた。別のルートが必要とされたが、それは極東までの旅 程を4,000マイル短縮する、最近開通したスエズ運河の形で実現した。ロスチャイルド家が突然にパレスチナに興味を抱いたのは、パレスチナがスエズへの 接近に有効なためであった。」[4] エジプト政府が1874年に破産したとき、英国首相ベンジャミン・ディズデーリはスエズ運河会社の株式を買うために「前渡で必要な莫大な現金を求めて」、 親友であったロスチャイルド家の方向に振り向いた。[5] この頃にはもう、ロスチャイルド家はフランス銀行[6]およびイングランド銀行の主要株主で、ベアリング・ブラザース、モルガン・グレンフェル、およびラ ザード・ブラザーズのような他の著名な株主と肩を並べていた。[7] 
     
ロスチャイルド家は、「帝政ロシア初期の産業と銀行制度の発展に永らく関わってきていて、しかも、その国の成長する鉄道網はロスチャイルドが世話をした貸付金によって大いに融資された。」[8] その皇帝が亡くなって、その息子である皇帝ニコラス2世が後を継いだが、彼は反ユダヤ人ポグロム(ユダヤ人大虐殺)を始め、ユダヤ人を差別した。そしてそれは、ロシアおよび東欧から西欧へのユダヤ人の大規模な移住を刺激する効果をもたらした。 しかしながら、これらの東欧およびロシアの移住者は新しく工業化している国々で成長し、政府の圧制、および政府と影響力の強い金融・産業財閥との間の共謀によって、大多数の人々は財産を没収され、思想と行動においてより社会主義的な性癖が醸成された。


英国のロスチャイルド家は、「1888年にロンドンのイーストエンドにおける大規模な破壊的な仕立て屋のストライキに、移住者の社会主義的 性癖が寄与していたこと、またヨセフ・スターリンとして世界に知られるようになる若いグルジア人の共産主義者がバトゥームのロスチャイルド石油企業に対し てストライキを起こすために労働者を既に組織化していたこと」で、大いに警戒心を抱いた。英国のロスチャイルド家は西欧および英国へのこのユダヤ人移住の 波を心配していた。なぜならば、移住者は激しく皇帝を嫌っていて社会主義に傾斜していたのに対して、ロスチャイルド家はロシアの皇帝体制と緊密に協力して いることで知られていたからである。社会主義嗜好のユダヤ人の英国への移住の増加問題に対する一つの可能性ある解決策は、移民制限法を制定することであっ た。しかしながら、これは排除に相当すると見られるであろうから、恐らく反動があるであろう。だから、エドモンド・ロスチャイルドは、パキスタンにユダヤ 人の故国を作るという彼の個人的なキャンペーンを始めた。ユダヤ人移住者に対する解放弁を作り、彼らの政治的行動を新しい動機の背後に仕舞わせ、西欧以外 すなわちパレスチナへの彼らの移住を促進するためである[9]
         
その上、英国における卓越したシオニストとして、パレスチナでのユダヤ人故国の樹立に向けた彼の提案は、ロスチャイルド家や大英帝国の主要 な経済的関心事に適っていた。その数年前において、ロスチャイルドはスエズ運河を英国のために買い、それはロシアの石油の主要な輸送ルートであった。この ように、パレスチナは英国とロスチャイルドの帝国経済的関心事のための保護領として重要度の高い広大な土地だと言えるであろう。
  
ロスチャイルド家は、公然と親シオニスト・親ユダヤ人的発言をしていたけれども、ロシアの体制および反ユダヤ主義ロシア内での経済活動への 支援を止めなかった。1895年に、その当時の石油生産と供給の世界的リーダーの一角であったロスチャイルド家は、「世界の市場を分割するために、(ロッ クフェラー財閥の)アメリカ・スタンダード石油を含む競合会社との協定に連著するまでに至ったけれども、恐らくロシア政府の反対のためと思われるが、その 協定の効果は無かった。」 1902年にロスチャイルド家は、「南ロシアの油田を探査する目的でアジア石油会社を設立するために、(間も無く唯一のグロー バル会社になる)ロイヤル・ダッチ・シェルと提携した。」[10]

           
1900年代初頭において、ロスチャイルド家はロシアにおける主要な石油財閥であったが、ロックフェラー家に次いで世界で2番目であった。 工業化が進むにつれて、大多数のロシア人の状況は悪化した。これは抗議と暴動に拍車を掛けて、「若かりしスターリン自身が、コーカサス地方の石油産業全 般、(および)特にロスチャイルド家に攻撃的な扇動をした。 1903年に、[ロシアにおける主要な油田である]バクーでの石油労働者の集団行動は、ロシアの広い土地を横断してのゼネストの初回のものを引き起こす火 花となった。」 その後、1904年の日露戦争におけるロシアの敗北が原因で、抗議は更に激化し、1905年の革命が起こった。その後の数年間において、ロスチャイルド家 はロイヤル・ダッチ・シェルにロシアの石油事業を売却し、その国際的な石油会社の株式を相当量手に入れた。[11]

           
ロシア内部における政治的および社会的な不安定さという恐怖の影は強烈で、国際的な銀行・石油・産業財閥からの注目なしですまなかった。当 然のことであるが、国際的な銀行家はロシアの発展に目を凝らし続けていた。ロスチャイルド家は、その当時の世界で最も反ユダヤ的な国家との親密な関係を維 持することができなかったので、ロシアとの公然な関わり合いを縮小しなければならなかった。また、故国を求めてのユダヤ人の大望に対する主要な擁護者であ ると主張しなければならなかった。これが、ロイヤル・ダッチ・シェルにロスチャイルド家がロシアの石油事業を売った理由である。しかし、それによって、そ のロイヤル・ダッチ・シェルの株式を相当量獲得したのである。彼らは公にはロシアとの絆を断っておきながら、その産業能力においてがっちりと利権をキープ したままであった訳である。 日露戦争の後、ロスチャイルド家は、「ロシアが体制維持のために資金を切に必要としていた正にその時に、主要な貸付の引き受 けに参加するのを拒否した。」[12]

           
その結果、1906年にジョン・D・ロックフェラーは帝政ロシアを援助するために介入し、「タシケントからトムスクまでとテヒタからポラモ シュナまでの鉄道に対する利権、およびその有望な路線の両側の土地の譲渡の対価として4億ルーブル」[13]あるいは2億ルーブルを提供した。これらの金 融業者は、ロシアでの彼らの利権維持をまだ意図していたことは間違いないことである。

           
しかしながら、世界の石油の埋蔵量を分配するというロックフェラー家、ロスチャイルド家、および他の主要な石油独占業者の間の協定に対する ロシア政府の拒否が、これらの有力な財閥の間の不平にたぶん拍車を掛けたのであろう。もし、ロシアが彼らの石油支配の全てを許すのを拒否し、全ての石油に 対する権利を持つならば、それはロシアが国内の石油産業を立ち上げる計画であるということを意味するであろうか? もし、これが真相ならば、それは全ての確固たる経済・金融財閥、特にロックフェラー家とロスチャイルド家に脅威となるかも知れなかった。というのは、莫大 な石油埋蔵量と資源によってロシアは、ひょっとしたら産業化において合衆国をさえ凌駕するであろうからであった。また、帝政ロシアは益々予見不可能な君主 政体によって支配されていて、益々不安定な投資環境になっていた。

           
1917年の10月革命は、「低賃金と厳しい労働条件に反逆して、油田での労働者の暴動を起こさせた。1919年にアゼルバイジャンはその 政治的な不安定性に乗じて、バクー油田に対する支配権を宣言した。その同じ年、SONJ[ニュージャージ州スタンダード石油]は、バクー地域における探査 のために未開発の土地を購入する協定をアゼルバイジャン政府と締結した。混乱状態の真っ只中で、外国の石油会社は格安で利権を集めるためにロシアに殺到し た。ノーベル兄弟は彼らの事業の多くをSONJ(今日のエクソン・モビル)に売って、1920年に提携した。」[14]

           
歴史家で作家でスタンフォード大学フーバー研究所の若手研究者であったアントニー・C・サットンは、「ウォール街とボルシェビキ革命」の中 で書いていることであるが、ファシスト制度と共産主義制度はいずれも「むき出しで束縛されない政治権力と個人の強制力に根ざしている。いずれの制度も社会 の独占支配を欲するものである。かつて、産業の独占支配はJ.P.モルガンとJ.D.ロックフェラーの目標であったが、19世紀後半までにウォール街の奥 の院は、文句なしの独占を獲得するための最も効果的な方法は、『政治的に進め』、社会を独占者のために働くようにさせる」ことであり、また「もし、社会主 義者の黒幕と提携できるならば、全体主義社会主義国家は独占資本家にとっての完璧な専属の市場になるということを理解した。」[15] このように、欧米の主要金融権力は、競争を免れて搾取できる専属経済を創造するために、ロシアにおいて全体主義社会主義政府を作ることを支持して、彼らの 資金を継ぎ込む決心をした。

           
革命が始まったとき、トロツキーはニューヨークに居たが、ロシアに戻り、革命を「先に進める」ことができるように、直ちにウィルソン大統領によってアメリカのパスポートが授けられるとともに、ロシア入国許可証と英国通過許可ビザが与えられた。[16] トロツキーは、旅行中に逮捕されたが、英国の介入の結果、釈放された。[17]

           
トロツキーは1917年に船でニューヨークを出発したが、その乗船仲間には興味深い顔ぶれ、すなわち他のトロツキズム革命家、ウォール街の 金融家、アメリカの共産主義者、およびチャールズ・クレーンという名の男が含まれていた。その息子がリチャード・クレーンであり、民主党の金融委員会元議 長のチャールズ・リチャード・クレーンは、合衆国国務長官ロバート・ランシングの補佐官で、ロシアで起こったことにおいて重大な役割を演じた。前ドイツ駐 在合衆国大使ウィリアム・ドッドが言ったところによると、 クレーンは、「共産主義に道を開くことになった[アレキサンダー・]ケレンスキー革命を招くために多くのことをした。」 ケレンスキーは、帝政政府の崩壊のあとに生まれた、ボルシェビキに先行したロシア暫定政府の二番目の首相であった。クレーンはまた、ケレンスキー政府は 「革命の第一フェイズに過ぎない」と考えていた。[18]

           
1914年に始まった第一次大戦の真っ最中に革命が起こり、全ての主要な欧州の権力がそれに関与した。ウォール街で組織化されていて、全て の各地域の連邦準備銀行のうちで最も影響力のあるニューヨーク連邦準備銀行を牛耳っていたモルガンおよびロックフェラー財閥は、ボルシェビキ革命のときの ロシアにおいて、「赤十字使節団を革命を操るための手段として」利用した。ロシア赤十字使節団は、J.P.モルガン、E.H.ハリマン夫人、クリーブラン ド・H・ドッジ、およびラッセル・セージ夫人などの富裕な人々から基金を得ていて、「第一次世界大戦において、赤十字はウォール街、特にモルガン商会に大 いに依存していた。」 米国赤十字社がロシアへの使節団を立ち上げたとき、「ニューヨーク連邦準備銀行取締役のウィリアム・ボイス・トンプソンが、『使節団の全費用を負担すると 申し出た』。」 [19] 全ての費用は、チェイス・ナショナル銀行の主要株主であるウィリアム・ボイス・トンプソンによって支払われたが、トンプソンをニューヨーク連邦準備銀行の 支配者に任命したのはチェイス・ナショナル銀行の頭取であった。[20]

           
使節団は、主に弁護士、金融家、彼らの助手、スタンダード石油およびロックフェラーのナショナル・シティ銀行と提携していた人々から成っていた。[21] 使節団は貸付を通してアレキサンダー・ケレンスキーの暫定政府を支援したが、ニューヨーク連銀のウィリアム・B・トンプソンは、「ドイツとオーストリアでボルシェビキ教義を伝播する目的でボルシェビキに100万ドルを個人的に寄付した。」 面白いことに、ボルシェビキが支配権を得たとき、「ナショナル・シティ銀行ペトログラード支店はボルシェビキの国有化法令から除外された。外国銀行だけではなく国内銀行も含めて、国有化を免れた唯一の銀行であった。」[22] 結局のところ、ロシアでの赤十字使節団は、「事実上、ケレンスキーやボルシェビキ革命家を通して、ロシアの市場と資源を支配するための道を開くためのウォール街金融家の使節団であった。」[23]

           
アメリカ・インターナショナル・コーポレーション(AIC)は、「国内外の事業を発展させるため、アメリカの活動を海外に拡張するため、ア メリカおよび海外の銀行家の利益、ビジネス、エンジニアリングを促進するために、1915年に創設された。」 そのAICは、モルガン、スティルマン、およびロックフェラー財閥によって創設・支配され、その取締役達はナショナル・シティ銀行(ロックフェラー)、 カーネギー財団、ゼネラル・エレクトリック社、デュポン家、ニューヨーク生命保険会社、アメリカ銀行家協会、およびニューヨーク連銀と提携していた。その 取締役会のメンバー達はボルシェビキを支援し、ボルシェビキ政府を承認するように合衆国国務省をせき立てた。[24]

           
1920年に、ロシアのゴールドがスウェーデンを通して吸い上げられ、そこで熔解されスウェーデン造幣局の刻印が打たれたあと、ニューヨー ク連銀を経由して、連邦準備制度の陰の創設者である主要銀行業者のうちの二つ、すなわちクーン・レーブ商会とギャランティ・トラスト・カンパニー(モルガ ン)に注ぎ込まれた。[25] ロシアの赤軍と白軍の間の内戦の間に、ウォール街の金融家はボルシェビキを地味に援助する一方で、その内戦で誰が勝利者になろうともウォール街が勝利する ことを確実にするために、(白軍の)アレクサンドル・コルチャクにも何百万ドルをも融資し始めた。[26]

アントニィ・サットンが書いていたように、「ロシアは、当時も今も、アメリカの産業および金融上の覇権に対する競合国として最大の潜在的脅威であった。」 そして、「巨大なロシア市場は、少数の強力なアメリカの金融家と彼らに支配される会社によって食いものにするのに絶好の専属市場にして特殊な植民地に転換されるべきであった。」[27]

           
最終的にボルシェビキが勝利者となり、そしてウォール街が勝った。1930年代初めのスターリン5カ年計画の下、ソビエトの工業化は、「西洋の科学技術と専門技術を必要とした。」 そして、「海外から」やって来た「しばしば見落とされる寄与」において、アメリカ企業がソ連の工業化を支援した。それらの会社は、フォード、ゼネラル・エレクトリック、デュポン[28] だけではなく、スタンダード石油、ゼネラル・エレクトリック、オースティン、ゼネラル・モーターズ、インターナショナル・ハーヴェスター、キャタピラー・トラクターも含まれ、これらの会社がソ連と盛んに交易していた。 [29]

           
スタンダード石油は、「莫大な量の共産主義国の石油」を買った。ゼネラル・エレクトリックは、「世界最大の4機の水力発電所」を建設する契 約をしてソ連から1億ドルを受け取った。オースティンは、「トラクターおよび自動車工場を完備した」 オースティングラード市を建設する契約で5千万ドル を手に入れ、「更に部品供給とフォード・モーターの技術援助という追加契約で3千万ドルを手に入れた。」 これに加えて、「他の[ソ連の]ビジネス仲間は、ゼネラル・モーターズ、デュポン、インターナショナル・ハーベスト、ジョン・ディア、キャタピラー・トラ クター、ラジオ・コープ、および合衆国船舶委員会であり、彼らは共産主義者に25隻の貨物蒸気船からなる艦隊を売った。」 ロシア経済と密接に繋がっていた銀行として、チェイス・ナショナル、ナショナル・シティ銀行、エクイタブル・トラストがあったが、いずれもロックフェラー 財閥系かあるいはモルガン財閥系であった。[30]

 

世界大戦が世界秩序を組み立て直す     


第一次世界大戦の真っ只中で、アメリカの学者グループは「独裁者と ドイツ帝国が敗れ去ったときの戦後世界についての選択肢についてウッドロー・ウィルソンに」大要を伝える仕事をしていた。このグループは「ザ・インクワイ アリィ」と呼ばれていた。そのグループは、ウィルソンが信頼する彼の補佐官エドワード・M・ハウス大佐を通して、ウィルソンに助言をしていた。 ハウス大佐は、ウィルソンの「欧州における、1914年の第一次世界大戦勃発から1917年の合衆国の介入までの間の私的な外交官であり」、連邦準備制度 設立の陰において、ウィルソン政府の主要な推進力であった人物である。[31]

                                  
「ザ・インクワイアリィ」は、合衆国における最も強大なシンクタンクである外交問題評議会(CFR)創立の基礎を築いた。そして、「ザ・インクワイアリィの学者達は第一次世界大戦後の中欧の境界線を引く手助けをした。」 1919年5月30日、英国と合衆国の学者と外交官から成るグループがホテル・マジェスティックで会合し、そこで彼らは「ロンドンとニューヨークに支局を置く英米国際問題研究所の常設を提案した。」 学者達はパリから戻ったとき、ニューヨークの弁護士および金融業者にもろ手を挙げて迎えられ、彼らは1921年に一緒に、外交問題評議会を設立した。「パリから帰った英国の外交官は王立国際問題研究所の創立に向けて大きく前進した。」  パリに創設する計画であった、2つの支局を持ち、合同メンバーで構成される英米研究所は実現の見通しが立たなかったので、英国とアメリカの支局は国内のメンバーを維持し、彼らはお互いに緊密に協力しようとした。[32] それらは「姉妹研究所」と言われたものだが、今でもそうである。[33]

           
セシル・ローズが創設した秘密クラブ、ミルナー・グループは、「1919年の平和会議への英国使節団を支配していて、国際連盟および委任統 治制度の設立と運営に関して大きな役割を演じた。また、1919年に王立国際問題研究所を創設し、まだそれを支配している。」[34] 秘密のミルナー・グループと同じ関係者を代表する他のグループが多くの国々で設立され、それらは円卓グループとして知られるようになったが、そのうち卓越 しているのが王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)と合衆国の外交問題評議会で、それに匹敵するグループがカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、 南アフリカ、およびインドに設立された。[35]

           
第一次世界大戦は歴史上の途方もない期間として印象的であるが、「過渡的帝国主義」として理解され得る。私がこれによって意味することは、 歴史的に帝国の衰退と遷移(すなわち、帝国の隆盛と没落)の期間は増大する国際的な暴力および戦争によって印象付けられるということである。

           
第一次世界大戦は様々な権力による帝国主義的野心の絶頂の結末であった。これは、1870年代における工業化世界を一掃する「新帝国主義」 の波の当然の結果であった。1879年に、ドイツ帝国とオーストリア-ハンガリーは2カ国間同盟を締結し、オスマン・トルコ帝国の衰退とともに成長してい たバルカンでのロシアの影響力と戦った。 イタリアが1882年に同盟に加入し、3カ国間同盟となった。1892年に仏露同盟が締結されたが、それはフランスとロシア帝国の間の軍事同盟で、欧州に おけるドイツ帝国の覇権脆弱化を意図したものであった。 1904年にフランスと英国の間の一連の協定からなる2カ国間友好協定が、欧州における力のバランスを維持するために、締結された。 1907年に英国とロシアの2カ国間友好協定が結ばれたが、その協定はアフガニスタン、ペルシャ、およびチベットに対する彼らの帝国主義支配の境界を定め ることによって、長く続いた大きなゲームを終わらせようと努力するものであった。それはまた欧州において成長しつつあるドイツ帝国の能力と影響力へのバラ ンスとしての意味もあった。英露友好協定署名のあと、英国、ロシア、およびフランスは3カ国友好協定を結び、3カ国間同盟に対抗した。

           
オスマン・トルコ帝国の衰退は、長くゆっくりした経緯であった。 オスマン・トルコ帝国は1299年から1923年まで続いた。「1517年から第一次世界大戦の終わりまでの400年間、オスマン・トルコ帝国は中央中東 の支配勢力であった。オスマン・トルコ帝国の行政組織や習慣は現代の中東の人々を作り上げ、帝国滅亡後にも残る遺産となった。」 [36]

           
16世紀末において、「オスマン・トルコの原材料は通常、国内で消費され、国内の産業に供給されていたが、徐々に欧州で製造された製品との 交換が増えていた。この交易によってオスマン・トルコ帝国の商人は利益を得たが、国家財政の衰弱と国内消費原材料の不足を招いた。 乏しい原材料の値段が上がるに連れて、オスマン・トルコ帝国はインフレに苦しむことになり、政府はその出費に見合うだけ十分な歳入を得られなくなった。こ れらの歳入がないことで、オスマン・トルコ帝国を支えてきた組織、特に軍隊は徐々に弱まっていった。」 これは大部分、カピチュレーション(訳注:非キリスト教徒がキリスト教徒に特権を許す協定)として知られている商業上の協定を通して為された。最初のカピ チュレーションは、「1536年にフランスと締結された。それによって、フランス商人はオスマン・トルコ帝国の港で自由に交易できるようになり、オスマ ン・トルコ帝国の課税を免除され、低い関税率で商品を輸出入できるようになった。更に、その協定はフランス商人に治外法権特権を認め、彼らがイスタンブー ルのフランス領事の法的支配権に入ることを許した。こうして、彼らはトルコ-イスラム教徒の法律よりもむしろフランスの法律に従えば良くなった。この最初 の協定は、直ぐ後に他の欧州国家と署名される協定のモデルとなった。」[37]

           
オスマン・トルコ政府は20世紀初めまでに十分弱まっていて、丁度同じ時期に欧州諸国、特に英国がその帝国に供給するための中東の石油に目 を付けていた。 主要な欧州の同盟国はこの衰弱したオスマン・トルコの地位を利用しようとした。1909年にオーストリア-ハンガリーがボスニア-ヘルツェゴヴィナを併合 し、ロシア帝国の怒りをかった。1912年~1913年の第一次バルカン戦争で、セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、およびブルガリアがオスマン・トルコ 帝国と戦った。戦後の決定がブルガリアを怒らせて、その後、ブルガリアはセルビアおよびルーマニアとの領土論争に没頭し始めた。そして、ブルガリアは 1913年にギリシャとセルビアを攻撃し、続いてルーマニアとオスマン・トルコ帝国がブルガリアに宣戦布告したが、これが第二次バルカン戦争である。

           
これが更にその地域を不安定化させ、オーストリア-ハンガリーはセルビアの成長する影響力に対して用心深くなった。オーストリア皇子フラン ツ・フェルナンドが1914年に暗殺されたとき、オーストリアは暗殺者の出身地であるセルビアに最後通牒を発し、その後宣戦布告した。 翌日、ロシア帝国 が戦時体制に入り、次にドイツ、更にはフランスが続いた。その後、ドイツがロシアに宣戦布告をし、第一次世界大戦が始まった。

           
その大戦争が終わって、オスマン・トルコ帝国は幻のように消えて、その領土は分割され、パリ平和会議においてフランスと英国に切り取られ た。その戦争の結果として、ドイツ帝国とオーストリア-ハンガリー帝国もまた公式に終焉を迎えたが、ドイツだけが戦争責任を問われ、ベルサイユ条約賠償条 項を通して罰せられた。ロシア帝国はボルシェビキ革命で滅び、1917年にロシアは戦争から撤退し、その同じ年に合衆国が参戦した。その大戦争によって、 合衆国は強大な国際的影響力を持つ有力な債権国となることで、世界の強国となった。英国とフランスは衰退したものの、帝国を維持した。しかしながら、両国 は中東に対する確固たる支配を維持しようと企てた。 

           
このように、第一次世界大戦は、影響力拡大と市場獲得を求めての帝国主義諸国の大規模成長の頂点であった。戦争開始時には多くの帝国があったが、終わったときには、欧州における二大帝国(フランスと英国)と、世界における新興勢力としての合衆国が残った。


 

 






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最終更新日  2016年02月09日 14時31分16秒
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