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2015年03月20日
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カテゴリ:三国志・中国史
瑞兆・怪異ネタ後漢書4です。

後漢書4

馬援列伝 第十四
○(p77)下に潦あり上に霧あって毒気は重蒸し、仰いでは飛鳶の跕跕(ちょうちょう)として水中に堕つるを見る。
(訳)水たまりがあって上空に霧が出ているとき、毒気がむんむんと蒸し、飛んでいたとんびがまっさかさまに水中に堕ちたのを見た。

★毒の沼地・・?交趾の先の話だからそのくらいあるかもしれない。


●(p86注)「武陵記」壺頭山の辺(かたわら)に石窟有り。即ち援の穿つ所の室なり。
室内に蛇有って百斛船の大いさの如く、是れ援の余霊なりと云う。

(訳)壺頭山の近くに石窟があり、馬援が掘らせたものと言われている。
中に百斛船ほどもある大きさの蛇がいて、馬援の化身(?)と言われている。

★馬援が長沙郡の先まで遠征したとき、暑熱を避けるために岸を削って石室を作らせたそうです。
こんなでかい蛇が住んでるんじゃ、後代の人は使えなさそうですけど・・


●(p122)「東観漢記」棱の広陵に在るや、蝗虫は江海に入りて化して魚と蝦と為り、陂湖を興復して歳租を増すこと十余万斛。

(訳)馬棱が広陵にいたとき、蝗が江海に飛び込んで魚やエビと化した。
(その収入で?)ため池や沼を修復して、税収が十余万斛も増えた。

★イナゴやセミなどの虫はエビのような味がする、とよく言われますけど、本当にエビや魚になってくれるなら食糧問題も解決ですね。


伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝 第十六
○(p197)茂初め広漢に在るや、夢に大殿に座し、極(うつばり)の上に三穂の禾(いね)有って、茂跳びて之を取り、其の中穂を得て輒ち復た之を失う。

(訳)蔡茂が広漢にいたとき、大きな家の中の梁の上に3つの稲穂があって、飛び上がって真ん中の穂を取ったが、無くしてしまったという夢を見た。

★主簿の郭賀に聞いたところ、「大殿は宮廷の象徴、梁に稲があるのは人臣の最高位の象徴で、真ん中の稲は三公の中の司徒か司空。「禾」と「失」を合わせれば秩となり、稲を失ったと言っても、禄秩を得ることができる。三公に欠員が出れば、蔡茂が三公になれる」と解説してくれました。
その後蔡茂は召し出されて司徒になり、郭賀を招いたそうです。


申屠剛鮑永郅ウン 列伝 第十九
○(p361)孔子の闕里に故無くして荊棘自ずから除(はら)われ、講堂従り里門に至る。
(訳)(鮑永が来ると)孔子の家があった闕里の町の周りの茨が勝手に除かれ、講堂から闕里の門まで道が出来た。

★それで孔子が味方しているとして、敵軍も招いて弓射の儀礼を行うと称して敵将を捕えようとしたそうです。敵も武器を隠し持っていたので自ら敵を討ったとか。
近づくと勝手に道ができるって、ゲームのイベントみたい。


●(p382注)謝沈「後漢書」敬は閑居して人倫を修めず。新遷の都尉、逼(せま)りて功曹と為す。庁事の前の樹、時に清汁有り、以て甘露と為す。
敬曰く、「明府の政は未だ甘露を致すこと能わず。此れは青木の汁なる耳(のみ)」

(訳)鄭敬は家にこもって世間づきあいをしなかった。新遷の都尉が無理に召し出して功曹にした。役所の前の樹が透明な汁を出したので、これを甘露としたが、
鄭敬は「殿のまつりごとはまだ甘露が降るほどには至らない。これはただの樹の汁です」

★その後病と称して辞め、元の通り家で悠悠自適の生活をしたそうです。
これは青木の汁なるのみ。って身も蓋もないですね。
甘露って雨みたいに降ってくるイメージだし。。


郎ギ襄楷列伝 第二十下
○(p446)臣聞くならく、恭陵(安帝陵)の火の処に比(しき)りに光曜有りと。

★注によると、「恭陵の百丈廊下に災あって、しきりに光曜あって絶えず」
火事が出たとき廊下がぴかぴか光っていた??





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Last updated  2015年03月20日 09時09分19秒
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