世説新語(旧魏臣その他)
最後は旧魏臣の子孫その他のエピソードをご紹介。
言語第二(二〇)満奮は風が嫌いだった。晋の武帝(司馬炎)の座に列席していたとき、北の窓に瑠璃の扉がはめてあったが、実際には気密性が高いのに、スカスカのように見えた。
満奮は嫌そうな顔をした。武帝が笑うと、満奮は言った。「私は、呉の牛が月を見て喘ぐのと同じなのです」
★満奮は満寵の孫。風が嫌いって、隙間風で寒いのが嫌なのか、砂ぼこり等が嫌なのか、髪型が乱れるのが嫌なのか。
原注によると、「呉一帯は気温が高いため、牛は月を見ても太陽かと思って喘ぐという」。
・・そこまで暑いの!?
雅量第六(三)夏侯太初(夏侯玄)は、あるとき柱に寄りかかって手紙を書いていた。
ちょうどそのとき、大雨が降り、雷が落ちて寄りかかっていた柱が裂け、着物が黒焦げになったけれども、表情も変えず、手紙の方ももとのまま書いていた。
来客や側近の者はみな、狼狽してじっとしていられなかった。
★夏侯玄は、夏侯淵の従子(おい)夏侯尚の息子。
家に雷が落ちたら普通狼狽しますって。まだ手紙を書いていたなら、感電して動けなかったとかではないんですよね?
着物の方に電流が流れたようで良かった。
術解第二十(二)荀勗はある時西晋の武帝(司馬炎)の宴席で、筍とご飯を食べ、同席していた人々に向かって言った。「これは使い古した木の薪で料理したものです」
同席していた者は信用せず、こっそりたずねたところ、なんと古い車の軸脚を薪にしたものだった。
★荀勗(じゅんきょく)は荀爽の曾孫。
そんな事までわかるなんて、料理マンガの登場人物みたいですね。ご飯に古い木の臭いが移っていたのかな。
音楽の才能も有り、宮中の音律を整えたという逸話もあるようですが、
暗愚な恵帝を後継に推したり、恵帝と賈后の結婚を薦めたりと、佞臣として評判は悪いようです。
巧芸第二十一(四)鍾会は荀済北(荀勗)の母方の叔父だったが、二人は仲が悪かった。
荀勗は宝剣を持っていたが、百万銭もの値打ちがあり、いつも母の鍾夫人のもとに置いていた。鍾会は書がうまかったので、荀勗の筆跡を真似て手紙を書き、その母に送って宝剣を取り寄せ、盗み取って返さなかった。
荀勗は鍾会の仕業だとわかったが、取り返す手段もなく、彼に仕返しをする方法を考えた。
その後、鍾兄弟(鍾毓(いく)・鍾会)は千万銭をかけて邸宅を建てた。完成したばかりで、大変立派だったけれども、まだ移り住むに至らなかった。
荀勗はきわめて画がうまく、そこでこっそり出かけて行って、その門堂に太傅(鍾繇)の肖像画を描きつけた。服装や容貌は生前そっくりだった。
鍾毓(いく)と鍾会は門に入った途端、大いに胸打たれ、邸宅はそのまま住む人もなく朽ちていった。
★叔父甥才能の無駄遣い対決(苦笑)。書に巧みと言われてるのに、偽造エピソード(演義でも詔書を偽造していたような)ばかりの鍾会・・
荀勗は音感があってグルメで画の才能もあるけど、性格が悪い。のね。
排調第二十五(四四)郗司空(郗愔(ちいん))が北府(徐州刺史)を拝命したとき、王黄門(王徽之)は郗家に挨拶に来て言った。「応変の将略は、其の長ずる所に非ず」
しきりにこの言葉を唱えてやめなかった。
郗倉(郗愔の次男郗融)は嘉賓(郗超)に向かって言った。「父上は今日、北府を拝命されたのに、子猷の言い草は不遜きわまりない。絶対に許せません」
嘉賓は言った。「この言葉は陳寿の諸葛亮評だ。人がお前の父を武侯(諸葛亮)になぞらえているのに、何の文句があるか」
★子孫の話ではありませんが、諸葛亮の名前が出ているし、好きな話なので。
たぶん機会はないだろうけど、「応変の将略は~」を使って皮肉言ってみたいw
諸葛亮死後100年以上は経った後の話ですが、陳寿の評は有名だったのですね。郗超・郗融と王徽之は従兄弟だそうです。
王徽之は郗愔に刺史なんか勤まるわけがない、とくさしているわけですが、陳寿は「丞相は臨機応変とか、そういうの苦手だから(震え声)」とフォローしていると思う。