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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月13日
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カテゴリ:城(中国)
私が現地でコピーさせてもらった例の100枚を超える大量の資料の中には、
備後の通史を書いた一般図書もある。

そのうちの(たぶん)『備後史夜話』という本では、
天文15年の暮れになって山名理興と大内氏の間で和睦交渉が進められたが、
和睦の条件をめぐって対立し、結局交渉は決裂したとしている。

う~~ん・・・
結構言いきっちゃってるけど、これはどこかに書いてあるのかなあ?
私は備後の郷土史料はホントに断片的なものしか持ってないので、
何とも言えないんだけど・・・
ただ、他ではこうした記述は私は見たことがない。


で、天文16年からは合戦の事実を裏付ける書状などが多く存在して、
天文12年~15年までとは大違いなので、
天文16年以降を神辺合戦と呼んだ方がいいんじゃないかと
私なんかは思っちゃうんだけど、当事者でもある小早川隆景が
7年かかったって言ってるんだしなあ・・・

でも、前回紹介した渡辺家の文書の全文を私はまだ読んでないんだけど、
田口義之氏によると、説得に熱が入りすぎたのか、
事実と少々異なるとおぼしき記述が見受けられるという(笑)。
ダメじゃん、隆景ちゃん・・・泣き笑い

「神辺城攻め7年かかったよ説」がこの隆景の書状だけによるものなのか、
あるいは他の史料も存在してこう言われているのかはわからない。

『新裁軍記』では、隆景の書状について

 【ただしこの証文は写しなり。然れども文勢事実共に虚脱に非ざること疑いなし、
  その上吉田記にもこの証文を取用たり】

としているけれども、田口氏の指摘もあるし、
果たして「7年」部分に全幅の信頼を置いてもよいものなのか・・・

父親譲りのオーバーさでちょっと大げさに書いちゃった可能性だって、
なくはないんじゃない?(笑)


え~、ま~、とにかく世間的には大内氏が神辺城を落とすまでには7年かかり、
神辺合戦のスタートは天文12年(1543)だとされておりますです~(←なげやり)。



天文16年(1547)に神辺城攻めが激化する以前から
大内方による準備が進められ、攻略がすでに始まっていた証拠として、
天文13年(1544)7月3日付けの
大内義隆から因島村上氏への書状がある。

これは備後・鞆に18貫の地を給与するとした下文で、
神辺合戦を語る上で欠かせないひとつのファクターとなっている。
つまり、神辺合戦の話では必ずといっていいほど取り上げられる書状な訳で、
書状の写しは『因島村上家文書』の中にあるらしい。

そして、これを機に因島村上氏は大内氏の傘下に入り、
小早川氏とのお付き合いも深まったと当然のように世間で語られているので、
私もそれをそのまま受け止めていた。

が、田口義之氏は『びんご古城散策/大可島城と村上亮康(2)』の中で、
この書状はニセモノだろうと判定しておられる・・・

おえ~~~~っぷ!!吐きそう雫
何が何だかわからなすぎて、もう神辺城の記事書きたくないんですケド・・・



ととととりあえず、私は『因島村上家文書』は持ってませんが、
『小早川隆景のすべて』によると、因島村上家から竹原小早川徳寿丸あてに
太刀を贈ったそうで、年不祥ながらも幼名の徳寿丸の名前で
お礼状を出しているようなので、おのずと年代は絞られる。

ので、有名な義隆の下文がニセモノであったとしても、
徳寿丸の元服以前からそれなりのお付き合いはあったようです。
まあ、お隣さんだしね。



え~っと、真面目にあれこれ考え始めるとマジで気分が悪くなってくるので、
ぽちぽち天文16年に入りましょうか。

ここからの流れは、おそらく郷土史料などにも書かれてるんじゃないかと思うけど、
わたくしの乏しい手持ちの史料やコピーした資料だけでも
結構色んなことが書かれていて、「ホントかよ?」て感じなので、
ひとまずここでは『大内氏実録』『萩藩閥閲録』『小早川家文書』
『毛利家文書』からの情報をメインにしてご紹介します。


4月28日 毛利軍・小早川軍が備後外郡五ヶ荘に戦い、坪生の要害を落とす。

7月ごろ  毛利元春が吉川家の家督を継ぐことが決まる。

8月?日  小原隆言が安芸入り。

8月12日 大内義隆、毛利隆元を備中守に推挙。

12月下旬 尼子軍が国境に駐軍。小原隆言は賀茂郡志芳にて毛利元就と会談し、
       外郡へ出陣。尼子軍退散。



出典が限られているので、並べるとこれっぽっちの出来事ですが、
書くことは沢山あります。
青字の部分が神辺城関連、黒字はその他の出来事です。


まず最初の坪生要害。
小早川軍と言っても、主力は恐らく竹原軍。
とゆーのも、徳寿丸の初陣がこの坪生要害攻略と言われておるのです。
徳寿丸、この時14歳。

そして、徳寿丸の署名での感状も残されております。
この戦いに関連しての『萩藩閥閲録』に掲載されている書状は、
天文16年5月3日付けを最初に、最も遅いもので天文17年3月17日。
1年近く経っちゃってるよ・・・泣き笑い

ざっと見ただけなので、1~2通の見落としはあるかもしれませんが、
しめて12通の感状を見つけました。

差出人はそれぞれ徳寿丸、毛利元就、毛利隆元、大内義隆、
あと神辺城攻めの責任者と思われる大内家重臣の面々。

受取人は、ちょっとはっきりしない人もいるけど、
因島村上家家臣、備後国人、安芸国人、毛利家家臣、大内家家臣てとこかな。



坪生要害は神辺城から東南の小山に築かれた砦。

上記の因島村上家への下文の真偽はともかく、
大内サイドでは海側からも攻めていったらしく、
本陣は鞆に置き、徳寿丸は天文14年から鞆に在陣していたともいわれる。

で、鞆から北上して山名理興方の城を落としていったので、
理興は大内対策として坪生に出城を築いたとされる。


一方の大内方では、小早川軍をして手城に城を築かせ、
前進基地としたという。

「坪生」も「手城」も、現在も地名が残っている。
(周辺地図はこちら 。右上に坪生、左下に手城)

つい何日か前、坪生町にお住まいのお客さんが
どっかの銀行の手城支店を振込先に指定した書類があって、
もう仕事中だというのに意識が飛んでいきましたよ・・・
て、真面目に仕事しろって?あっかんべー

ただ、この辺てカッチン(水野勝成)が福山城を築いて以降、
相次ぐ干拓でかなり地形が変わっている。

んで、干拓の状況の地図を見てみると、現在の手城町はぽっかり海の中。
手城町から北も結構海で、天文16年当時は坪生付近まで海だったかもしれない。

手城には手城島城跡というのがあり、現在は陸続きらしいが
かつては海に浮かぶ小島で、四方が絶壁の堅固な地形であったという。


先に挙げた感状の受取人、この中には気になる人が含まれている。
1人は小早川一族の乃美宗勝。

この方は一般的に、厳島の戦いから小早川水軍の提督として
活躍したという風に言われているけれど、
乃美を名乗ってはいるものの、実は浦家の人間。
(乃美氏と浦氏の関係図はこちら )

宗勝の父・賢勝は乃美氏の生まれで、浦氏を継いだ。
のに、なぜか父ちゃんも宗勝も乃美を名乗っていてちょっとややこしいんだけど、
竹原に近い海に面した一帯が浦氏の所領だった。
その地理的関係からも推測できるように、浦氏は初代から水軍を擁していたという。


もう1人は、末長景道。

この方は名前がよく出てくる割に詳しいことがわからないんだけど、
『萩藩閥閲録』の文書には、景道さんの先代・先々代は
竹原小早川氏に仕えたとある。

景道さん自身はといえば、『小早川隆景のすべて』によれば
因島村上家と小早川氏の両家に同時に仕えた人だという。
どちらも海の一族。

それから、浦家の家臣と思われる人も坪生要害の戦いで感状を受けており、
これらの人々から、この時の小早川軍の構成は水軍がメインだったかな~
ということが窺われる。



さて・・・
大内義隆から因島村上家へのアヤシゲな書状とセットで語られる話に、
手城に城を築いたというのがある。

これはおそらく『小早川家文書』の中の、
年不祥8月7日付けの書状から来ていると思われる。

内容は、「備後外郡五ヶを竹原に預けるので、ここに城を築き
がっちり固めておくように。そして海上の安全を確保するように」てな感じ。

「五ヶ」は五箇荘(ごかのしょう)のことで、
まあ大ざっぱに言って手城と坪生の間にまたがる一帯ですかね。

で、これを受けて手城島城を築き、その後に坪生要害を落とした、
という流れで語られることが多い。
・・・のだけど、ちょっとすっきりしない。

この書状、受取人は弘中隆兼。
差出人は吉見興滋・青景隆著・陶隆満の大内家重臣。

吉見さんは石見国人の吉見さんの一族じゃないかと思われるんだけど、
『大内殿家中覚書』の奉行衆に見える「波多野備中守」がそうだともいう。
青景君と陶隆満君は「神辺城(4)」で簡単に紹介しました。

東西条代官・・・この頃はもう「西条守護」と言ってたかな、
の弘中君は結構長いこと東西条を中心とした安芸、
それから備後南部を任されていたけど、神辺城関連の書状を見てると
万年管理者の弘中君とは別に、
合戦イベント用に臨時に重役が派遣されたらしいことがわかる。

しかも、ちょいちょい入れ替えがあったらしい。

書状に残るイベント要員は、

天文16年6月  小原隆言・青景隆著・陶隆満

天文17年3月  吉見興滋・青景隆著・陶隆満

天文17年6月  杉甲斐守・弘中隆兼・小原隆言

天文18年7月  小原隆言・青景隆著・右田隆俊

天文18年8月  小原隆言・青景隆著・陶隆満

天文18年11月 竜崎隆輔・小原隆言・陶隆満


てな感じで、天文18年は短期間で署名する人が変わっているので、
必ずしも署名をした人が神辺城攻めの責任者とは言えないかもしれないけど、
ある程度は実態を反映しているものと思われる。

こうして並べてみると一目瞭然だけど、吉見興滋は天文17年にしか顔を出さない。
ので、天文16年前半の坪生要害攻め以前に竹原家に五箇荘を預けたというのは
正しい見方なのだろうかという疑問が湧く。

ただ、天文17年の安芸国人へのとある書状の中で
「去年、興滋が帰る時さ~」って言ってるものがあるので、
吉見君がどこから帰る途中だったのかはわからないけど、
あるいは天文16年にも備後に遠征していた可能性はある。

そもそも、天文12年~15年の書状が少ないからなあ・・・
信頼性が高い文書系史料の空白部分は、郷土史料に頼るしかないのかもなあ・・・

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最終更新日  2013年09月14日 22時53分56秒
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