カテゴリ:旅日記(中国)
※「神辺城(33)」の続きです。
車道をうねうねと下って吉野山公園も過ぎる。 屋敷跡があったといわれる神社へ寄りたかったんだけど、 現地ではその入口がどこにあるのかわかっていなかったので 探しながら歩いたけど、入口は見つからなかった。 だいぶ降りきった後で、振り返ったとこ↓。 次の城へ行く前に、ちょっと寄ってくところがあったので、 右手に尾根をひとつ回り込んで目的地まで歩く。 歩いてみると思ったより遠かったし、道もなんだか心細い道になってくけど、 途中の道には上の写真のようなものもあったりして慰められる。 てか、この石垣、そんなに最近造られたもののようにも見えないんだけど、 ひょっとして江戸期の石垣の名残なのかな・・・ 山すそのちょいと寂しげな道を進むと、途中にお目当てを示す碑が出る↓。 少し安心してさらに進むと、道の一番奥に次のお目当て、 龍泉寺がある(場所はこちら)。 うめばち? 何の紋だろう・・・ 創建者ゆかりの紋ではなさそうだから、寺紋かな。 さて、龍泉寺の名前は歴バナの方で何度か出してますが、 神辺城主の菩提寺といわれております。 創建のエピソードは史料によって多少の相違がありますが、 福山市神辺歴史民俗博物館様のサイトに寺伝による話が詳しいので、 一部引用してご紹介します。 【寺伝によると建武2(1335)年に神辺城を築城した浅山景連 (あさやま・かげつら=のち朝山)が、同時期に菩提寺として丁谷(ようろだに)に 建立した「清水山(せいすいざん)雲渓庵(うんけいあん)」を始まりとしています。 代々城主の菩提寺として栄えますが、その後、積雪により大破。無住となり 衰微してしまいます。】 はい~、また伝説の築城者・朝山さんが出てきましたね。 ( 「神辺城(1)」もご参照ください) 朝山さんが築いたかはともかく、 最初に城を築いたといわれるのは私が登った黄葉山ではなく、 その北にある古城山の方だとされている。 ・・・が、古城山も龍泉寺からすぐの場所にあるので、 場所的には別におかしな話という訳でもないような気もする・・・ ただし、現在の位置で考えれば、の話ね。 上の解説によると、もともとは丁谷にあったってことだけど、 丁谷って神辺城主郭部の南に広がる谷を指すと思うんだよねえ。 古城山にいた朝山さんが菩提寺として創るには、 ちょっと離れてない? 逆に、黄葉山の神辺城主の菩提寺って言った方がまだしっくり来る。 なので、おそらく長いこと黄葉山の神辺城を築いたのが朝山さんて 考えられていたのだろうから、その伝承から創建者を朝山景連だとしたんじゃないかな、 って思った。 ああ、もちろん寺伝にケチつけてる訳じゃないですよ。 ただ、朝山さんてのちに生まれ故郷の出雲へ帰ったって話もあるみたいだけどね。 ま、それはともかく朝山氏の紋は梅鉢ではないようなんだな。 かといって、山名紋でもないし、杉原紋でもない。 さて、ここ龍泉寺は下の図では右下の方にあります↓。 (『神辺城跡発掘調査報告』の「神辺城付近地形図」に、 佐藤昭嗣氏の『神辺城の頃』に添付の「地籍図による神辺城下復元案略図」 の内容を加えたもの) 居館跡の位置については佐藤氏の推定ですが、 帰り谷の北には屋敷群があったともされるので、 何にしても黄葉山北麓一帯に城関係者の居住空間が広がっていたってことでしょう。 龍泉寺は谷の奥まった場所にあるものの、 南にそびえる山頂には25郭の跡も認められており、 25郭のピークからは龍泉寺の東隣の谷へ通じる道がある。 あるいは、かつては25郭から龍泉寺へ降りる道なんかもあったかもしれない。 境内にある鐘楼↓。 屋根は広島らしく立派だけど、柱の下部が石で継いである・・・ たぶん、最近になってからの補修なんでしょうけど、 なんか強度、大丈夫なのかなって気になる 本堂はこの時、あいにく工事中だったのでほとんど写真は撮れず まあ、いいさ。 私がここに来た目的は別のところにあるのだ。 てな訳で、愛用の頼政の数珠をいそいそと装着して、墓地へ。 龍泉寺は細い谷の奥にあって、山腹には墓地が広がる。 お目当ての写真だけは持ってるんだけど、 場所がどこだかわからないし、案内が出てる訳でもないので、 墓地内をひたすら歩いて地道に探すしかない。 しばらく歩きまわった後で、道沿いにお目当てを見つけた↓。 光線が強くて光っちゃってますが、右側の墓石群がそれです。 かなり古そうな、小さな宝篋印塔や五輪塔の間にあるこれが、 ここでのお目当て~↓。 はいっ! こちらがなんと、目黒新右衛門秋光さんのお墓と伝えられてるものです。 目黒さんのことを忘れちゃった方は、「神辺城(17)」を見てね。 神辺城を退去した山名理興に、自身が引き連れてきた兵を付けて 出雲へ行く手配をしてやった後、平賀隆宗に自刃を願い出て、近くの禅寺に入ったという その寺がこの龍泉寺なんだそうな。 『備後史夜話』には龍泉寺の過去帳の文章が一部掲載されているので、 そちらからご紹介しましょう。 【天文十九年十月神辺合戦のとき、目黒新左衛門秋光、当寺に於て自害(十月十五日) す。子孫、福島正則に奉仕。福島丹波守と共に神辺に在住す。此時目黒政貴、 祖父新左衛門自害の地に寺を建て、菩提を弔はん事を願ひければ、慶長七年三月、 当城主福島丹波大檀那となり、当寺を中興、龍興寺(福山市北吉津町)の末寺とす。】 う~んう~んう~~~~ん・・・・・ 心情的にはこれをそのまま信じたいところだけど、 どうにもわからないことが多すぎる 『陰徳太平記』の設定では、山名理興が平賀隆宗と逢引き・・・ じゃなくて一騎打ちをしたのが天文19年(1550)10月13日の夜。 隆宗が命がけのペテンに勝って、理興が律儀に後片付けをして 城を明け渡したのが10月14日。 そして、龍泉寺の過去帳による目黒氏の命日が10月15日・・・ つまり、『陰徳太平記』と過去帳との符牒は合う訳だよね。 てか、ぶっちゃけ『陰徳太平記』から持ってきた話のように思えるけど。 まあ、龍泉寺の記録を『陰徳太平記』が参考にした可能性もあるし、 同じ話がどこぞの郷土史料に書かれてるのかもしれないけど、 天文18年(1549)の末には大内家臣・青景隆著が神辺城の城督になることが 決定してる訳だから、この部分はリアルタイムで書かれてない可能性が かなり高いと言っていいんじゃないだろうか。 そもそも、目黒氏の応援てのもホントの話なのかな~って 私は思ってるし・・・ まま、目黒氏が帰るに帰れなくなって自刃したのが現実の話だとしても、 その現場はここじゃないんだよね。 だってその頃、龍泉寺の前身・雲渓庵は丁谷にあったんだから。 そして、その頃の雲渓庵は衰退して無住の寺だったらしい。 しかし、縁起には目黒氏の孫まで出てくるからなあ(笑)。 出雲に残した子は主君に取り立てられて、同行した子は神辺で隠棲? 隆宗の温情により、同行した子の切腹は認められなかったとしても、 目黒氏の首を送り返してやる時に、一緒に帰らないか?フツー。 在陣が長引いたんだったら、目黒氏の子がちょいと現地の女性に手を出して 子を産ませちゃったなんてのもあるかもしれないけど、 なんかそういう感じでもなさそうだしなあ・・・ ちなみに、目黒氏は過去帳では新左衛門ですが、 『陰徳太平記』では確かに新右衛門になってます。 Hei! Left or Right? 龍泉寺の縁起に戻りますが、目黒秋光の孫・政貴(まさたか)は福島氏に仕えたとある。 杉原・毛利時代はどうしてたんだ? その後の話は福山市神辺歴史民俗資料館様のサイトの方に もう少し詳しく書いてあって、目黒政貴の願いを入れて 慶長7年(1602)3月に福島丹波守正澄が再建したという。 この頃までに、現在の龍泉寺の場所には「龍興寺」が建立されており、 再建した丁谷の雲渓庵は龍興寺の末寺とされた。 福島氏の後に入ったカッチン(水野勝成)は、あらたに福山城を築き本城とする。 城下町の建設には寺社の移転がつきものだけど、 福山も例外ではなく、カッチンは神辺からも寺を移転させており、 その中に龍興寺もあった。 で、龍興寺が引っ越した跡地へ雲渓庵が入り、 龍泉寺へ寺名をあらためたという・・・ 正直、なんともな~!! って感じの縁起ですが、素朴な疑問は色々湧くものの、 別に縁起にケチつけようとか真偽を問うなんてつもりは毛頭ありませぬ。 ま、伝承ですから、伝承・・・ にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年10月14日 22時13分00秒
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