カテゴリ:城(東北・関東)
その一室を借りきって、様々な風体の男たちが円卓を囲んでいた。 りり:皆様、ようこそおいで下さいました。 司会を務める戦国ジジイこと白川りりと申します。 本日は日本を訪れた皆様に、色々なことを語っていただきとうございます。 あ、料理や飲み物は好きなものを自由に頼んでくださいね。 江戸期に来日したガイジンの中には朝鮮人もいるんですが、 ここだけの話、ちょっと色々と難がありましてね、 今回はオランダ商館の方だけにお集まりいただきました。 え~と、ではまず、簡単な自己紹介から始めていただきましょうか。 まずは年寄り・・・いや、来日の古い順にケンペルさんから・・・ん? ケンペル:誰か来たぞ。お前の席の隣が一つ空いてるが、その客か? ツュンベリー:ここにいるのはジジイを除いてみなヨーロッパ人だが、 あの細い目は明らかに東アジア人だな。 申維翰:おお、間に合ったようだな。おいこら、余への連絡が漏れていたぞ。 倭人は昔からずさんでいかん。 り:え~と、すいません、どちら様ですか? 申:なに、余を知らんのか?お前が待っていた申維翰とは余のことだ。 り:えっ、申維翰さん?なんで!? 申:金仁謙からこの座談会の話を聞いて、遅れてはいかんと慌てて飛んできたのだ。 り:金さん!? そ、それで金さんも来てるんですか? 申:一緒には来たが、倭人と同席はしたくないと言って部屋の外にいる。 ほら、こちらを覗いているあの男がそうだ。 ツ:ここまで来たなら部屋に入ればいいのに・・・ お~い金さん、食べ放題飲み放題だそうですから、一緒に食卓につきませんか? 金仁謙:誰が犬の陰茎のような倭人と一緒に食事などするか! り:ちっ、秘密にしてたのに、アイツ一体どこからこの座談会の話を聞き込んだんだ・・・ 申:なにか言ったか? り:いえ、何も。ホホホ。 申:え~と、席は・・・なんだ、倭人の隣か。まあ考えようによっては、 進行役の隣は上席ともいえる。どれ、どっこいしょ り:あっあっ、ちょっと待って!今すぐお席を用意しますから。 すいませ~ん、椅子ひとつ持ってきてくださ~い!! ケ:いいのか?たった今、難があるとか何とか言っていたが・・・ り:何の話ですか?(←しれっ) もうおひと方は遅れてらっしゃるようですが、先に始めましょうか。 レフィスゾーン:廊下にいる金さんも呼んであげた方がいいんじゃないのかな? り:いいんですよ、自分が来たくないって言ってるんだから。 あの人は頑固だから、イヤだと言ったら聞きゃ~しません。 なんせ、江戸まで行って江戸城に行かなかったぐらいですからね。 ちょっと金さん、テーブルにつかない人には発言権はないですからね!! 金:うるさい!倭人のくせに私に命令するな!! り:アレだから。えっと、それじゃあ・・・ん? ケ:また誰か来たぞ。 ドゥーフ:やあ、遅れて申し訳ない。 り:あっ、ズーフさん!お待ちしておりましたあ 申:声が変わったぞ。余が入ってきた時とはえらい違いだな。 ツ:なに?お前、この男が好きなの? り:やだあ、ツンさん!そんなはっきり・・・ ツ:ツンさん!? り:だって、皆さんの名前長いんだもん。めんどくさいから、長い名前の方は 縮めさせていただきますね。 ズ:愛称だと思えばまあいいじゃないか。にしても、お前発音悪いぞ。 我が名はドゥーフだ。 り:発音が悪いのは、日本人である証です。エッヘン ツ:いばるな。 まあ、オランダ通詞もはっきりしたオランダ語を話しはしたが、 語順とかはまるでなってなかったしな。 り:通詞は実力で選ばれる訳じゃなく、世襲でしたからね。 さあズーフさん、お席へどうぞ。 ツ:ご指名だ。ジジイの隣へ座りたまえ。 しかし、りりがこーゆー顔が好きだとはな・・・ ズ:い、いやしかし、男性に好かれてもな・・・ ケ:いやドゥーフ君・・・これでも一応コイツは女だ。 ズ:えっ!?ウソ!! だってジジイって・・・外見だって確かに・・・ ツ:いや、いちおう女だ。医師の我々が言うんだから間違いない。 ズ:う、ううん・・・ 釈然としないが、では、隣へ座らせて頂こうか。 り:どうぞどうぞ。なんだったらお酌もしますよ さてそれじゃ、全員揃ったところで自己紹介から始めて頂きましょうか。 ケ:私はエンゲルベルト・ケンペル、ドイツ人だ。 オランダ商館付医師として1690年来日、翌1691年と1692年の2回 江戸参府に随行した。 申:余は申維翰(しんいかん/シンユハン)。朝鮮人だ。 1719年の第9回朝鮮通信使の製述官として来日した。 ツ:製述官ってなに? り:一般には書記官という風に説明されるけど、文書起草を担当する高官てとこですかね。 はい、じゃあツンさん・・・じゃねえ、金さんがその前だ。 あの人には発言権は与えてませんからわたくしが代わりに紹介しますが、 金仁謙さんは第11回朝鮮通信使の従事官の書記として1764年に江戸入りしてます。 ズ:・・・一体、誰のことを話しているんだ? レ:この部屋に入る前、廊下に男がいませんでしたか? ズ:ああ、中国人みたいな男がいたが・・・彼のことか? 廊下で盛んに飲み食いしていたぞ。 り:なんだとお~!! まあいいや、このテーブルの上のものはわたくしが代金を持ちますが、 それ以外のものは一切責任持ちません。 金さんには自分で払ってもらおう ツ:次は私の番だな。 カール・ペーテル・ツュンベリー、スウェーデン人だ。 ケンペル先輩と同じく、オランダ東インド会社の出島商館付医師として来日し、 1776年に江戸参府に随行した。 申:オランダ商館といっても、ドイツ人だのスウェーデン人だのと、 オランダ人が1人もおらぬではないか。 り:オランダ東インド会社は多国籍企業なんて風にも言われますけど、 各商館に勤めたのはオランダ人だけって訳でもなくてね。 ま、ここからは正真正銘のオランダ人ですから。 ズ:私はオランダ人のヘンドリック・ドゥーフ。 オランダ東インド会社出島商館の第156代商館長を務めた。 初めは下級商務員として1799年に来日したが、 色々な混乱のあとで商館長になったのだ。 ・・・ここでその経緯をすべて話してもいいかな? り:いや、長くなるからあとにして下さい。 じゃあ、最後にレフィさん。 レ:ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン。私もオランダ人だ。 出島のオランダ商館の第164代商館長を務め、江戸には1850年に参府した。 り:と、いうわけで17世紀ラストから19世紀なかばの開国直前までの江戸期に 日本に滞在した方にお集まりいただいております。 江戸初期からのメンバーを揃えられればベストだったんですが、 ちょっとそこまで手が回りませんでした。 ケ:それにしても、お前の前に積み上げられた本の山はなんだ? 食卓にそんなもの積み上げるなんて無作法じゃないか。 申:倭人は礼というものを知らん り:うるさいな。気にしないでください。 も~、皆さんが膨大な内容の本なんか書き遺すから、こんなことになるんです。 ズ:どれどれ?おお、これは私の書いた回想録じゃないか! ツ:ドゥーフ君、日本語読めるの?私は日本語をマスターするところまではいかなかったからな。 ・・・ちなみに、私の本もある? ズ:ああ、あるとも。ここにいる諸氏の本はすべてこの中にあるようだな。 レ:じゃあ、私の書いたものも邦訳されてるってことか。それは嬉しいな。 り:この座談会での皆さんのセリフは、主要な部分についてはこれらの本から引用します。 いちいち出典は書きませんが、ラストにまとめて参考文献の一覧を載せますので、 読者の方はそちらをご参考になさってくださいね。 も~、この番外編へ漕ぎつけるまでにわたくしがどんだけ苦労したか・・・ こんなもの書こうなんて思わなければ、もっと早く本編も終わらせることができたのに・・・ ケ:・・・誰に向かって、何の話をしてるんだ? り:いえ、こちらの話です。 さあて、それじゃまず参府関係の話から始めましょうか。 朝鮮通信使とカピタンの参府では少しルートが違うので、 まずオランダ商館の方から簡単に旅程を説明していただけますか? ケ:この国の大名や重臣の参府の日が将軍によって決められているように、 我々の出発の日も日本の1月15日または16日(陰暦)と決められている。 したがって、出発の日が近づくと色々な準備に入るのだが、 まず西暦の2月20日に長崎出島を出発し、時津から大村湾を渡り彼杵(そのぎ)へ行く。 彼杵から飯塚~直方と進み、小倉へ出て、下関へ赤間ヶ関を渡る。 そこで先行させていた船に乗り込んで、港々を転々としながら兵庫まで船で行く。 り:先行させていた船? どうせなら、皆さんも長崎から兵庫まで一気に船で行っちゃえばいいのに・・・ ケ:昔は我々もそうしていた。だが、ある時ひどい暴風雨にあって危なかったことがあってな、 死ぬのはごめんだから、将軍の赦しを得て荷物だけ小倉へ先回りさせておいて、 我々は陸路で小倉まで行くことになったんだ。 り:荷物って? ケ:献上品や大きな荷物だ。陸路だと費用もかかるし、色々と煩雑だからな。 この船は参府旅行専用に建造された船で、2年ごとに幕や調度品を綺麗に手入れしておき、 船が古くなったら取り換える。これだけでも結構費用がかかるものさ。 り:ふ~ん。しかし兵庫なんて、ずいぶん中途半端な所で下船するんですね。 ケ:大坂の港は浅くて我々の乗ってきた船では行かれないので、 兵庫からは小舟に乗り換えて大坂へ向かうのだ。 大坂からは京に出て、あとは東海道をひたすら行くだけさ。 長崎から小倉までは陸路で通常5日。小倉から船で大坂もしくは兵庫まで行き、 大坂から江戸まで2週間かそれ以上。海路だと、いい風を得られなければ かなり時間がかかることがある。 船旅の時は用心して夜は停泊するので、あまり距離は稼げない。 江戸で20日滞在し、同じように長崎へ戻り、3ヶ月以内ですべての旅を終える。 と、これは初回の参府で、行きに29日かかり、帰りは3月2日に江戸を出発したのに、 出島に戻ったのは5月21日だった。 2度目の参府は、出島を出て諫早・竹崎から有明海(湾)を渡って柳川付近へ。 あとは前年と同じだが、帰りは兵庫から船に乗った。 ツ:私も先輩とおおむね同じルートだよ。少しだけ違う箇所もあるけどね。 私の時は小倉まではずっと陸路で、九州で船を使うことはなかった。 大坂への大型船の乗り入れは禁止されていたから、兵庫で降りたのは先輩と同じだけど、 兵庫からは西宮・尼崎経由で神埼まで陸路で行って、そこから大坂まではまた船。 あとは京から東海道だね。 ただ、先輩の時は商館長だけが駕籠に乗って、先輩と書記官は馬だったけど、 私の時はみんな駕籠だった。 レ:私は商館長だからもちろん乗物だったけど、ずっと乗ってるのは好きじゃなかったので 結構自分で歩いたよ。 私の時には、下関から室まで行く船は下関で借りた。 行きには50日かかったし、帰りは5月4日に江戸を出て6月12日に出島に着いた。 ツ:私の時も行きには海上で26日もかかっちゃってさあ~。 行きは3月4日出発で江戸に着いたのは4月27日。 帰りは5月25日に江戸を出て、長崎には6月30日に戻った。 り:大変な長旅だなあ~。片道でゆうに1ヶ月はかかるってカンジですかね。 瀬戸内海なんてその名の通り内海なんだから、スコーンと兵庫まで 行っちゃいそうなもんだけど、ここにいる誰1人として海で難儀しなかった人は いないという・・・ ツ:私の時には、下関から兵庫までの船は会社が毎年480レイクスダールを支払って 借りてたんだけどさ、順風なら8日で兵庫に着くそうだよ。 だけど、私の時は下関から家室(かむろ)へ行き、その先の中島で逆風となって 嵐になったので、上関まで戻って3週間停泊せざるを得なかった。 ほとんどは船上で過ごしたけど、時には上陸して寺院観光などもした。 それに、もし順調に旅が進んでいたら長崎に戻るまでに花々は まだ咲いてなかっただろうから、いい面もあった。 ケンペル先輩は、献上品も船に積み込んで先回りさせたと言ってたけど、 こんな風に波浪に左右される海路に大事な献上品を託すことはできないので、 私の時は320里の全行程において献上品を携行せざるを得なかった。 ズ:私の時も、会社の印をつけたオランダの旗を掲げた船には重い荷物を積んだ。 私は3回参府したんだが、私の最初の参府(1806年)の時から出発の日程が 早められ、それまでは(陰暦)正月15日に出発していたのが、正月7日になったのだ。 レ:私の時の帰りは風が強くて、なかなか兵庫から出港できなかった。 あまりに船を出さないもんだから、出帆に適当な風を利用しないならば再び岸へ戻るという おどしさえして熱心に説いたので、やっと抜錨したんだ。 り:ふむ。じゃあ、ケンペルさんの時だけ、小倉へ着くまでに大村湾や有明海を渡ったけど、 あとは小倉から兵庫まで船で行って、東海道の起点から終点までを陸路で行った訳ですね? レ:私の時は、室から上陸して陸路を進んだんだ。 ツ:え?なんで? レ:・・・大いに船酔いしていたからだ。ここで古い習慣に従って申し出なければ、 兵庫まで船で行かなければならなくなる。兵庫までもとても難儀で不快であると 言われているのに、とてもじゃないけどもうそれ以上は耐えられなかったんだ。 ケ:船酔いか、それは仕方ないな。 で、帰りは? レ:帰りは通常通り兵庫から出港したよ。帰りは上検使が船酔いしていた。 り:船酔いねえ~・・・ 朝鮮通信使は、オランダ商館員より長く船に乗っていたので、 相当船酔いにも苦しんだみたいですよ。 じゃあ、次は朝鮮通信使の方に語っていただきましょうか。 ツ:ちょっと待ってよ。 ドゥーフ君、やけに口数少なくない? ズ:それは・・・ り:ツンさん、痛いところを・・・ ズーフさんはね、バタビアから本国に向かう途中で海難事故に遭って、 多くのものを失ってるんです。 この座談会は皆さんの著述で成り立ってるので、他の方のように細々と書いたものが 残っていないズーフさんにはあんまり喋らせられないんですよ。 商館日記の方には書いてあるのかもしれないけど、わたくしは持ってないのでね。 ケ:お前は時々、訳のわからないことを言う。 り:わたくしにも色々と事情があるんです。 ま、細かいことは気にしないでください さて、それじゃ次回は朝鮮通信使の旅程から始めますね。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年07月18日 17時33分58秒
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