戦後における教育行政の転換
堀尾輝久著『いま、教育基本法を読む 歴史・争点・再発見』(岩波書店、2002年刊)の引用・紹介を続けます。〔引用〕 本来の教育行政は、こういう実践を行うためには、こういう条件が必要なのだという教師の教育の内容や実践についての要求に耳を貸し、条件を整えていく責務をもつものであり、教育と教育行政のこのような関係こそが、つくられるべきだと思うのです。 そのためには学校の実情がよくわかる地方教育行政の責任は大きいのであり、そのために教育委員会法(1948年)では教育委員に公選制がとりいれられ、父母・住民・教師の教育条件整備にかかわる意向を直接に反映させるようにしたのです。〔コメント1〕 この教育委員会法も戦後における教育の民主化の重要な柱となるものであり、その第一条には教育基本法十条の文言がそのまま取り入れられています。 「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実状に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする」 しかし、このような法の精神はその後、しっかりと尊重され具体化していったのでしょうか。残念ながら答は「否」ですね。〔引用〕 戦後の教育史においては教育の自律性を保障すべき教育行政がその任務を超えて、教育の自由の精神を踏みにじり、管理を強化してきたといえるのです。そしてその歩みが、特に1955年頃を境に大きく進められていき、その動きの中で、この十条解釈が大きな争点になってきているのです。(・・・)〔コメント2〕 仮に時の権力(政権担当者)が教育を思い通りにしようと考えた時、妨げになるものは何でしょう。いうまでもなく戦後の日本においては、教育基本法十条(およびその精神をそのまま反映した1948年の教育委員会法)でしょう。実際、政府(政権政党)によって行われたのは、十条の解釈を変更し、その精神に反する法を制定することでした。〔引用〕 「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」が、1954年、国会に警官隊を導入して強行採決されて、制定されます。これは、(・・・)基本法の措定する国家と教育の関係、そして国家権力からの独立という意味での教育の中立性の原則を大きく変え、国家は中立の保持者として、何が偏向しているかを裁く地位につく、という大転換を意味するものでした。(・・・) もう一つは、1956年に教育委員会法が改正され、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地教行法)が通り、公選制の教育委員会が任命制に変わったのです。〔コメント3〕 創意工夫しながら教育を自主的に創っていく権限を、地方に、教育現場に、国民(地域住民)に、という戦後における“教育の民主化政策”は、このように大きく転換し、“教育の中央集権化”が進められていくことになります。 その背景となる政治情勢はどのようなものだったのでしょうか。 戦後、資本主義陣営と社会主義陣営が激しく対立するなかで、米国の対日政策が当初の「民主化・非軍事化」から「日本を極東の(軍事的)防壁にする」という方向へ転換し、日本の再軍備と「防衛力増強」を強く求めていくようになった、ということが真っ先に挙げられます。1953年の朝日新聞に載った池田・ロバートソン会談覚書の一部を紹介しておきましょう。(一)日本の防衛と米国の援助 会談当事者は日本国民の防衛に対する責任感を増大させるように日本の空気を助長することが最も重要であることに同意した。日本政府は教育および広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任をもつものである。 当時の政治家(政権政党)によって結ばれた上記のような合意を具体化していくための手段として教育が位置づけられ、「教育の民主化」から「教育の中央集権化」へと教育行政の方向が大きく転換していくことになったのです。 制定後60年経って行われた「教育基本法改正の強行採決」についても、そのような歴史を踏まえて理解していくことが大切であると考えます。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか(一日でワンクリックが有効です) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)