ローマ教皇とキリスト教
「テレビ屋 なかそね則のイタリア通信」に興味深い記事が投稿されていた。4月26日に葬儀が行われたフランシスコローマ教皇と、264代のヨハネパウロ2世に関わる記事だった。 内容紹介の前に、それまでのキリスト教会に対する私見を簡単に述べておきたい。 世界史の中でキリスト教には明確な功罪がある。「異端排除・弾圧、十字軍という名の侵略、贖宥状の販売・金集め、植民地支配を正当化する布教」などなど、罪をあげれば数多く出てくるが、他方、原始キリスト教が「万人平等思想」や「個々人のかけがえのなさ」を明確に打ち出したことも事実である。確かに、上記に挙げた罪からも明らかなように、キリスト教は繰り返しその初心を裏切ってきたのであるが、にもかかわらず、内部からその初心に戻るべきことを自己批判する呼びかけ(例えばヴォルテールの『寛容論』など)が繰り返し湧き上がってきた事実にも注目していた。私自身としては、キリスト教が打ち出した理念を高く評価しており、全世界に広がった国際赤十字運動の背景にキリスト教があったであろうことも疑いないと考えている。しかしながら正直な話、ローマ教皇という地位はカトリック教会という権威の象徴(功罪で言えば罪の中心)という先入観があったのも事実である。教会権力の頂点に位置するものが、積極的に原始キリスト教の初心を打ち出す可能性については懐疑的で、そもそも教皇の実際の言動をつぶさに検証するようなことに全く関心がなかったのだ。冒頭にあげた「テレビ屋 なかそね則のイタリア通信」の記事を読み、自分自身の不明と怠慢を明確に自覚した次第である。以下、要約して紹介したい。〔要約〕https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52345245.htmlフランシスコ第266代ローマ教皇が死去した。世界約14億人のカトリック信者の心の拠り所であるバチカンは、かつて大ヨハネ・パウロ2世の力で前進した。だがバチカンは、彼の後任のベネディクト16世時代に後退、あるいは停滞した。2013年、バチカンはフランシスコ教皇の誕生によって再び希望の光を見出し、前進を始めた。フランシスコ教皇は徹底して弱者に寄り添う「貧者の教会」の主として、疎外され虐げられた人々を助け、同性愛者や破綻した信者夫婦の苦悩を受け止め、勇気を持って忠実に普遍的な愛に生きよ、と人々を鼓舞し続けた。2019年には訪日して、「核兵器の保有は倫理に反する」と呼びかけ核抑止論を真っ向から否定した。彼はまたキューバとアメリカの関係改善に尽力し、バチカン自身と中国との和解劇も演出した。同時にバチカンの改革も積極的に推進。シリア内戦に始まる世界紛争の終結を目指した活動にも余念がなかった。(・・・)清貧の象徴であるイタリア・アッシジの聖人フランチェスコの名を史上初めて自らの教皇名とした彼はその名の通り飾らない性格と質素な生活ぶりで信徒は言うまでもなく異教徒にさえ愛され、尊敬された。 https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52345370.html(フランシスコに先立つ)ヨハネパウロ2世は26年余に渡って教皇の座に居た。彼は多くの功績を残したが、最も重要な仕事は故国ポーランドの民主化運動を支持し、鼓舞して影響力を行使。(・・・)さらに彼は敵対してきたユダヤ教徒と和解し、イスラム教徒に対話を呼びかけ、アジア・アフリカなどに足を運んでは貧困にあえぐ人々を支えた。同時に自らの出身地の東欧の人々に「勇気を持て」と諭して、いにはベルリンの壁を倒潰させたと言われている。(・・・)世界各地の問題に真摯に立ち向かいつつ、強者には歯向かう恐れを知らぬ勇者だった。強さと謙虚と慈悲心に満ちた偉大な宗教者であり人格であったのがヨハネパウロ2世だ。 今般亡くなったフランシスコ教皇は、ヨハネパウロ2世によって枢機卿に叙任された。そのことからも分かるように彼は終生ヨハネパウロ2世を崇敬しその足跡をたどった。(・・・) フランシスコ教皇は自らを「弟子」と形容することがよくあった。それは言うまでもなくイエス・キリストの弟子であり、民衆に仕える謙虚な僧侶また修道士という意味の弟子であると考えられる。同時にそこには自らをヨハネパウロ2世の弟子と規定する意味もあったのではないか(・・・)。〔要約は以上、以下comment〕 ヨハネパウロ2世とその志を受け継いだかに見えるフランシスコが、キリスト教の初心や(ヴォルテールの訴えた)宗教的寛容を自らの身をもって実践したことが十分見てとれる。実は、上記記事をとおしてかつて読んだ書籍『資本主義と闘った男‐宇沢弘文と経済学の世界‐』を思い出した。その部分の概略は以下のとおりである。「宇沢に対して当時のローマ法王から「回勅」を出すのでその作成に協力してほしいと言う依頼が来た。回勅というのは、ローマ教皇ヨハネパウロ2世が全世界の司教に、教会の正式な考えを通達する重要な文書。」そのパウロ二世が、社会主義国家はいずれ資本主義国家へと移行して行くとしても「資本主義は大丈夫なのでしょうか」と、あえて経済学者である宇沢弘文に問うてきたのである。宇沢弘文は、新たな回勅のテーマを「社会主義の弊害と資本主義の幻想」とすべきではないかと述べ、かれはその中に「社会的共通資本」の理念をしっかりと盛り込むよう進言・協力したのであった。 ヨハネパウロ2世(当時)が、国境を越えた様々な問題に向き合う視点だけでなく、将来世代への責任を意識しつつ実践していたことを証しする実例だろう。20世紀末、そして21世紀の初めに、キリスト教の初心を身を賭して発言・行動するローマ教皇が存在したことはしっかりと心に刻みたい。〔5月8日付記〕 現在、新たな教皇を選出するための「コンクラーベ」が行われている。一日では決まることがないようだが、誰が選出されるにしても、ヨハネパウロ2世やフランシスコ教皇のように、キリスト教の初心に沿って発言・行動されることを望むものである。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに (yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など