誰のための司法か〜團藤重光最高裁・事件ノート
この間の主な記事のPDF版 PDF版 「誰のための司法か」 NHKに対して次のような「視聴者の意見」を届けました。〔意見〕 NHKについては、2023年に入ってからの三つの番組が印象に残っています。1月15日の日曜討論。ウクライナ戦争をめぐって「軍事評論家」を登場させる番組が多い中で、薮中さんと多くの女性参加者が「軍事的支援」とは別の観点から様々な発言をしていたのがよかった(特サヘル・ローズさんは素晴らしかった)です。 3月20日の「イラク戦争から20年」で真っ向から取り扱った劣化ウラン弾の問題。米国の戦争犯罪にもしっかり向き合い検証する姿勢が伝わってきました。 さらに、4月15日に放送されたETV特集「誰のための司法か〜團藤重光最高裁・事件ノート」。日本の司法のあり方を深く考えさせられるいい番組でした。 引き続き、しっかりとした調査報道(例えば放送法の問題などを主題にした番組など)も含めた番組づくりを期待したいものです。 〔以上〕〔自分なりに(上記)NHKの果たしている役割に目を向けようと努めてはいますが、ニュース番組の現状(難民などの強制送還をさらに容易にする入管法改正案の委員会可決をまともに報じないことなど)には強い不満を表明せざるを得ません。 4月30日付記〕 さて、4月15日に放送されたETV特集、「誰のための司法か〜團藤重光最高裁・事件ノート」について、やや詳しく内容を紹介します。 元最高裁判事。團藤重光。残された資料の中に最高裁の審議の過程をしめすノートが現れた。大阪空港訴訟に関するメモである。大阪空港で騒音に苦しむ住民が、夜間の飛行の差し止めを求めて国を提訴。 最高裁は判決で「差止めに関しては住民の請求を却下」した。 (騒音被害者・原告)「住民の健康を守ってこそ国家がある、」「なぜ認められなかったのかとても悔しい、」最高裁は判決の直前、二度にわたって審理のやり直しを行ない、そのことで結論が覆った。 引き伸ばし作戦。この種の介入はけしからぬことだ。 (團藤)これ(團藤ノート)は、司法と国民の権利のあり方について考える材料になる。本来的には團藤さんの雑記帳ではなく、ちゃんと文書として残し、裁判についての批判があれば国民の批判を受けるのが正しい最高裁のあり方だ。 (福島至 龍谷大学名誉教授) 團藤重光 1913年生まれ。東京帝国大学法学部入学。23歳で東大の助教授に就任。刑法学の第一人者となった。1974年。最高裁判事に就任。最高裁の判事の中で唯一学者出身だった。團藤が書き残した大阪空港事件に関する裁判記録のノートは38冊。 万国博以降、空港の騒音被害が深刻化し、住民は救済を求めた。一家が揃う夜の時間帯には3分半に1回、飛行機が通過する。求めたのは夜9時から翌日7時までの飛行差し止め。 運輸省が裁判の矢面に立った。 第一審、夜10時以降の飛行差し止めを認めたが、さらに大阪高裁判決では、夜9時から翌朝7時の飛行差し止めを認めた。理由として挙げたのは、人格権の侵害だった。 これを受けて夜9時以降の離着陸を停止されたが、国は逆転判決を期待し、最高裁に上告したのである。当時、福岡空港や厚木基地、横田基地でも騒音に関する公害訴訟が起った。成田空港反対運動も激化していた。 三権分立の一角である司法。最高裁は三つの独立した小法廷がある。一ページ目に、第一小法廷の結論が書かれている。結論としては差止が中心。事実上、9時から7時まで飛行を禁止している。このような事実関係から考えると原判決を是認していいのではないか? 差し止めを認める第一小法廷の判決が下されていれば、その後の公害裁判に対するインパクトは非常に大きなものがある。公害裁判の流れは、その後に実際にあったものとは、大きく違ったものになったのではないか。 飛行差し止めを認める根拠について團藤たちは次のように判断した。人格権で行くほかあるまい。人格権は生命、身体生活を他人から侵害されない権利。高裁で認められたが、最高裁で認められた判例はなかった。 團藤のメモ。小学校の授業は防音装置があっても中断。汽車の接近に気づかないで、子どもがひかれて死亡した事故あり。このような中、法律が果たすべき役割とは何か? 最高裁、5月22日結審。第一小法廷は騒音訴訟「和解」での決着を探っていた。 裁判所が和解の仲介をするのであれば、内容によっては検討する(国側)。和解協議の内容もノートに詳しく記してある。 第一小法廷としては国の側に助け船を出したという感覚はおそらくあった。 しかし、和解協議の2回目、法務省の態度が硬化する。和解協議は行き詰った。 6月28日、和解協議打ち切り。第一小法廷は、すでに固めていた判決を下す方向で調整に入った。ところが。判決直前、事態は大きく動く。 判決目前の9月1日。最高裁大法廷に回付するという決定がくだされた。 判決直前になって、小法廷から大法廷に回すということは通常はまずない。 大法廷に回付するのは1,憲法判断をする場合、2,判例を変更する場合、3,小法廷で意見が二つ同数になった場合。4,小法廷が相当と認めた場合。そのような場合に置いても小法廷が主体となって判断する。一体何が起こったのか? 判決の準備をしていた時、7月18日付けで国の方から本件を大法廷にまわすことが妥当であるという上申書が出た。文書を提出したのは、和解協議に来た法務省の担当者。 團藤のメモはある人物を記している。7月18日づけで本件を大法廷に回すよう上申書がでた。打ち合わせ中にかかった電話の相手は村上大和元長官だった。法務省側の意を受けた村上氏は大法廷回付の要望を私に告げた。 元最高裁長官村上大和。法務省の官僚を長く続けてきた経歴を持つ。この電話の話を聞いた時、團藤は考えた。この種の介入はけしからぬことだ。検察が要望を出すことはしばしばあるが、本来裁判当事者でなく中立であるべき元長官がこのような介入するとはどういうことなのか? 今になって上申書とは? 和解の進め方を不利とみて、この挙に出たのだろう。実質的には忌避の感じさえする。(コメント:電話すること自体がケシカラン。普通はやらないですよ。) 加茂喜久雄 元最高裁調査官。こういうことがあったとすれば、そのこと自体は明朗な話ではない。團藤さんがこういう感想を持つのは、それはごく自然なことだと思う。憲法76条三項。すべて裁判官はその良心に従い、独立してその職権を行ない。この憲法及び法律にのみ拘束される。 大法廷での審理が始まり、新しい長官の指名に基づき、服部裁判長がついた。 大法廷では飛行差し止めについて意見が拮抗した。1979年11月大法廷結審。 服部長官は、審理やり直しを表明。定年によって、最高裁の裁判官が交替。 最高裁の長官の指名にもとづいて内閣が任命する。新たに任命された裁判長裁判官は、飛行差し止め否認に回った。判決は「人格権」には触れず。民事訴訟で飛行差し止めを求める事は出来ないという結論を出した。 三権分立と言うけど、結局は行政の思うようにされてしまう最高裁。 判決のインパクトは大きかった。以後、公害については差し止め請求を裁判所で求めても、それは認められないという流れが定着してしまった。 司法は司法として正しいことを貫くべき。民衆の側に立つのだ、という裁判官がいたということは重要。多数者の利益は、立法機関、国会で実現できる。少数者の利益は国会では実現できない。そこに司法が果たすべき役割がある。團藤さんのような考えの裁判官がいるということは司法本来の役割に沿う。(福島至 龍谷大学名誉教授)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など