カテゴリ:青春時代「アメリカンシネマ」
スピルバーグ映画でシリーズ化されたもうひとつの作品です。
こちらはスピルバーグ自らがメガホンを撮っています、シリーズの3本とも。 ただし、もともとのアイデアはジョージ・ルーカスのもの。 ルーカスとスピルバーグが映画談義をしている時に生まれたネタです。 スピルバーグが「未知との遭遇(第53回)」公開の後、ルーカスはもちろん「スターウォーズ(第50回)」の公開の後、次に企画をフリートークしてたんだと思いますが、宇宙や未来に向かずに、レトロな方向を目指したのは一種のカウンターバランスでしょうか。 まあ、映画自体は何もメッセージを持たない、ひたすらハラハラドキドキのお楽しみ映画(本人たちはジェットコースタームビーと名乗っています)なので、中身にふれる必要も無いのですが、ただ気になることがひとつ。 『アーク』って知ってましたか? 日本語で『聖櫃』と訳してますが、益々解りません。 応えは、モーゼの十戒が刻まれた石版が収められている箱、ということなのですが、アメリカ人には一般的なものなのでしょうか? モーゼの十戒は、チャールトン・へストンの「十戒」で知っていますが、あれが実話だとは到底思えません。 だって、海が割れて道ができるんですよ。 “神話”だと思うから許せるんで、まさか本気にしてるわけじゃないですよね、アメリカの人。 スピルバーグはユダヤ人なのでキリスト教徒ではないのですが、『旧約聖書』はユダヤ教キリスト教、共通の聖書なので二人の相互理解は出来ているとしても、どこか“噛み合わなさ”を感じてしまうのです。 アメリカは、白人でも黒人でもおおむねキリスト教徒です。 ただし、ユダヤ人はユダヤ教徒です。 でも、キリスト教はユダヤ教から分派したものなので、根っこは同じ意識を持っています。 しかしながら、キリスト教はヨーロッパに伝播する過程で大きく変容します。 ヨーロッパの土着宗教と混然して、カルト宗教の側面を備えるようになりました。 ゲルマン民族の戦争好きが、“愛の宗教”を変えてしまったのです。 博愛のイエスの思想が、いつの間にか、排他的思想に変えられてしまいました。 マルティン・ルターの宗教改革以前は、一般宗徒は聖書を読むことを禁じられていました。 それで、キリスト教の変容は誰にも気づかれなかったのです。 話が解り辛くなってしまいましたが、つまり、キリスト教の持つ本来のキリスト教のあるまじき部分と、ユダヤ教の選民思想が背景となって、おかしな宗教観を持つ作品になってしまったと言うことです。 そういえば「未知との遭遇」も、“宇宙人”を“神”とするならば、“神”と交信できる選ばれた人がこの世にいるのだと言うメッセージとも受け取れます。 どうもその辺の、収まりの悪い前提が気になって、親友二人(僕の妄想ワールドではこの二人は親友なのです)の世界観に距離を感じてしまうのです。 それと、“悪役”にみんなが納得する“ナチス”を持ってきて、その手先になっているのが何故かフランス人と言う解りにくさ。 ヒットラーが本当にモーゼの石版を欲しがっていたとは考えにくいし、ユダヤ人の監督がナチスを出してくるにしては扱いが軽いんじゃないの?って気がします。 あくまで娯楽映画だからいいわけ? 考えすぎといわれればそれまでですが、こういう娯楽一辺倒の作品にこそ、バックボーンに主張を一発こめてもらいたかった。 ついでに、シリーズ二作目の「インデイー・ジョーンズ/魔宮の伝説」では、悪役がインドの“邪教集団”に変わります。 だから、インドに行ったら邪教はキリスト教の方だってば。 アメリカの20倍も深い歴史を持っている国だよ、インドは。 やっぱりおかしいよアメリカ人。 ひょっとして、イスラム教徒も邪教集団だと思ってんじゃないの? 言っとくけど、イスラム教もユダヤ教から分派したもんだから、本来キリスト教とは兄弟だからね。 こちらも『旧約聖書』は聖書としているんだから。 どっちもどっちなんだけど、争ってるのはおかしいんだよ君たち。 イラクを見ていて、結局“宗教戦争”は宗教が原因ではないってことがわかりました。 みんな金儲けと権力のため、“十字軍戦争”の昔から… どうも宗教っぽい色合いが滲むと入れなくなっちゃうんです。 人間の“考え方”のホームポジションが宗教観なんなのかなあ。 特定の宗教に属して無くても、宗教観はいつの間にか培われるもので、それがないと物事を考えるスタート地点に立てないのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年12月09日 22時37分14秒
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