カテゴリ:青春時代「アメリカンシネマ」
題名で解るとおり、反戦映画です。
’71年、アメリカはベトナム戦争の泥沼化にあえいでいる時です。 反戦運動も盛んで、日本でもフォーク集会で『戦争を知らない子どもたち』などを歌ってました。 話は、第一次大戦中、ジョニーは戦場で負傷します。 その負傷の仕方が半端じゃない。 両手両足を根元から失い、目も耳も鼻も機能せず、さらに顎もなかったので口もありません。 胴体に頭と生殖器だけが残っている、ただ生きていると言う状態です。 惨いというだけでは済まされない状態ですが、モデルは実際にいました。 なんと、この状態で15年生き続けました。 当然、本人の回想録というわけにはいかず、すべて物語りは想像です。 そんなジョニーが、すべて閉ざされた状態で、何を考え何を望んでいたのか。 “脳”だけは無事に機能しているという前提で想像すると、彼は夢を見るように過去を振り返ります。 次々浮かぶ楽しかったことと、あの怖ろしい出来事。 少しずつ推理を働かせて、自分の置かれている状況をつかんでいきます。 たどり着いた地は…“絶望” 解ったと同時に、諦めるしかないという現実。 しかし、物語は一筋の光が差し込みます。 クリスマスの夜、新しい看護婦がジョニーの胸に“MARRY”と指でなぞります。 それに反応して、ジョニーは後頭部でモールス信号を打って知らせるのです。 自分がここにいることを。 このモールス信号で外部とつながるアイデアによってジョニーは甦ります。 『人間は、環境という鏡によってのみ自分を存在させることが出来る』 というのが僕の今こだわっている理論なのですが、ここでもそれが立証されます。 情報伝達の手段を得たことにより、生ける肉塊でしかなかったジョニーが人間として蘇生します。 しかし、そこで語られた彼の希望を聞き愕然とします。 自分をサーカスに売ってくれと言うのです。 この醜悪な姿を見世物にして、戦争の悲惨さを伝えたいと。 ジョニーはそれを自暴自棄で言ってるのではなく、世の中の役に立ちたいという欲求のままに望んでいるように見えます。 見世物になることに夢を描いているのです。 むりやり連れて行かれた「エレファント・マン」とはそこが違います。 受け手としては、複雑な感動が錯綜します。 もちろんそんなことは許されません。 するとジョニーは、もしそれが叶わないなら、殺してくれと懇願します。 この映画を始めてみたときは、反戦映画という思い込みで見ているので、イコール戦争はいけないという結論にいちついてしまってましたが、今思うといろいろな人間の難題が包括されていることが解ります。 終局、人は何故生きるのかということまで。 寝たきり老人、植物人間、脳死。 ちょっと問題が重くなりすぎるので、又機会を探すことにします。 「ジョニーは~」に戻ると、新しい看護婦さんは(若くてきれいです)ジョニーを愛撫してくれます。 生殖器は残ってましたから。 それで、彼は凄く幸せな瞬間を迎えます。 “DNAの指令”に従うことが幸せの第一歩であることは疑えないと言うことですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年12月23日 08時35分02秒
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