カテゴリ:青春時代「アメリカンシネマ」
涙ボロボロシリーズ。
だめな奴が、あるきっかけで目覚め、復活する。 そんな話、ありましたね。 「ロッキー(第15回)」がそうでした。 「チャンプ」も同じモチーフです。 ボクシングが舞台と言うことも同じ。 違うのは、モティベーションの違い。 ロッキーは恋人エイドリアンのため。 チャンプは息子T・Jのため。 『チャンプ(息子は父親をこう呼びます)、もう一度チャンピオンになってよ!』という息子の声に応えるため。 背中を押す人は違っていても、目指す所は同じ、“自分の発見”。 僕の哲学の師匠、洋先生は常々言っていましたっけ、『己とは何ぞや!』と。 ロッキーもチャンプも、自分を信じて、再生に成功しました。 “人事を尽くして、天命を待つ”というのは間違いで、“天命を信じて、人事を尽くす”というのが成功者の思考パターンなのだそうです。 信じることが、一番重要です。 「ロッキー」が’76年、「チャンプ」が’79年、僕は20歳と23歳、結婚前の汚れ無き青年でした。 人生に夢を持っていたかどうかは忘れましたが、生き方の正しさは求めていました。 ただ、正しさの基準があいまいでした。 絵空事の正しさと、生きていく上の正しさにはギャップがあると思ってました。 サクセス話の裏側の、“馴染めなさ”が、青春の屈折率に曲げられて、冷ややかな目に映ってしまった部分もあります。 あの頃、ああすればよかった、こう選べばよかったと、いろいろ思いますが、一番必要だったのは、“己に正直であれ”ということだったのではないでしょうか。 まどろっこしいですが、あの頃の「チャンプ」を見たときの感想が、素直なものでなかった気がします。 「ロッキー」の展開は、単純に楽しめたのですが、「チャンプ」の方は、人生の重荷をずっしり抱えているがゆえに、何で?という雑音がどうしても頭を掠めてしまいました。 訳知り顔で、突っ込みを入れたりしてました。 でも、今は僕にも愛する息子がいます。 昨年いろいろなことがあって、一番大切なのは“家族”だとわかった今、たぶん違う思いで見ることができるでしょう。 人間は、環境と言う鏡に写してしか自分を見ることは出来ません。 そして、一番根源の自分を知るのは、自分の子どもに自分を写してみた時です。 それが、僕です。 僕が、チャンプなのです。 子どもに対峙した時の自分を見て、様々なことを発見しました。 そして、その発見した“自分らしく”生きていこうと思いました。 今「チャンプ」を見直せば、初めて見た時の100倍ぐらい泣くでしょう。 あの時の涙は、息子に感情移入したものでした。 今のそれは、父親の魂が乗り移ったように。 父親のチャンプ役は「真夜中のカーボーイ(第37回)」のジョン・ボイド(アンジェリーナ・ジョリーのお父さんです) 父子を捨てて出て行った母親は「俺たちに明日はない(第2回)」のフェイ・ダナウェイ。 アメリカンニューシネマを代表する二人でしたが、こういうべたな作品で顔を並べるということは、一つの区切りに差し掛かった思いがします。 同じ年に「クレイマー・クレイマー(第46回)」がアカデミー作品賞を取り、同主演男優賞がやはりアメリカンニューシネマの申し子ダスティン・ホフマン。 アメリカンニューシネマのヒーローが、そろって女房に逃げられ、子育てをしているって、やっぱり時代は変わりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年01月11日 09時31分21秒
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