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カテゴリ:家族
亡き父のこと Part2
父は昭和3年生まれ。終戦は昭和20年だから、17才日大予科の時に終 戦を迎えた。 柔道部と応援団に所属していた。後に柔道部の主将と応援団長になる。 当時の大学は、共産系の学生と学徒出陣帰りの学生が闊歩し、荒れていたよ うだ。 応援団長になってからは、毎日いざこざを納めていたという。 いざこざを起こした学生を応援団に引き入れた。 父の生涯の師となる金子義男先生と出会う。 金子先生は戦争帰りということで、共産系の学生の排斥運動に遭った。父は 全力で阻止して先生を守ったそうだ。 父が応援団長になったとき、父の得意の乗馬で門衛を振り切って登校し、学 内で問題になったことがある。その時、先生は体を張って父の放校処分を阻 止した。助けたり助けられたり、その後生涯のお付き合いしていただくこと になる。 金子先生は、松尾芭蕉の研究で日本の第1人者になられた。 応援団の度胸試しがおもしろい。 夜、千鳥ヶ淵で進駐軍と女性がいちゃつくところへちょっかいを入れ、進駐 軍と格闘する。池に投げ入れたらOK。逆に負けたら替わりの団員が行く。 父は、後に映画俳優になった法政の学生ヤクザ安藤昇と同い年だ。 自分はいつでも素手だが、安藤はいつも拳銃を持っていたと父は話してい た。 あの荒くれ達を父はよく治めたものだと金子先生が晩年話しておられた。 焼け野原になった東京で、復興のエネルギーが生じる前の、身も心も荒れた 時代だったのだろう。 大学卒業後、金子先生の実家のある栃木県で、学校の先生をやることにな る。 つづく 当社のhpも見てね ←ブログランキングに参加しています。ポチッと押してご協力 お願いします。現在、すまい・不動産部門で110位です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.04.28 11:15:58
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