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テーマ:暮らしを楽しむ(383685)
カテゴリ:京の史跡探訪
紫野の歴史再考として、「今宮神社」、「大徳寺」、「雲林院」、「紫野斎院」を中心に、「若狭川」、「有栖川」、「堀川」、「小川」の流路を推定してきました。
今回は、「紫野斎院」推定地について検証します。 片平は論文で、「雲林院」が平安京の条坊制でなく条里制の尺度に基づいて計画されたことを明らかにした。「雲林院」と前後して創設された「紫野斎院」の敷地規模もまた、条理と関連した可能性が高いと考えている。さらにその位置についても、「雲林院」のあった場所から南へ延長させた条里制坪並みで想定した場合に、、角田の想定位置より四五メートル程北に位置していた可能性があるとした。この場合には、斎院南大路について検討し直さなければならないことになる。よって、ここでは角田説を採用し、斎院南大路が現在の廬山寺通にあたるとする。とした、「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者の説を検証してみます。 片平が「雲林院」の場所を推定した方法で、条里制坪並みを再現した。(下図) 国土地理院地図から作成 条里制の面積単位「町」は一辺約109mです。「雲林院」の場所から、4町南は丁度、現在の「蘆山寺通」に合致して、そこを含む4町分が「紫野斎院」に割り当てられた区画であったとすると、角田の推定位置とほぼ同じ場所に「紫野斎院」が存在したことになる。「平安時代から現代まで 堀川源流考」の著者が、「条里制坪並みで推定すると約45m北に位置する」と言っている根拠が定かではない。 次に、平安京造営の基本単位である条坊制で、一条大路から区画を設定した場合、下図の様になる。 国土地理院地図から作成 一条大路から北に、条坊制の面積の最小単位である「町」は、一辺が約120mであり、小路の分を考慮すると小路から小路の芯々で約134mとなります。上図の様に「一条大路」から、9町に「安居院南大路」が敷かれ、「紫野斎院」が造営されたと考えます。 奇しくも、条坊制でも条里制の尺度で推定しても、たまたま同じ位置になったのです。 しかし、「雲林院」の位置は、条坊制の尺度とは合いませんので、条里制の尺度に従って造営されたと考えます。しかし、「紫野斎院」は、条坊制の尺度で敷かれた「安居院南大路」の北側4町分の区画内に造営されたと考える方が納得度が高いのではないでしょうか? 休憩コーナー タイム(カフェ) 門前小僧(食堂)
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「堀川源流考」の著者です。
今、「紫野の歴史再考」老年に鞭打って一生懸命読んでおります。 紫野についてちょっと分からぬ所があって、お尋ねいたしたくコメント欄をりようさせていただく失礼をお許し下さい。 船岡山の東にある「犁ヶ鼻」という地名と、そのもうちょっと東の現在「上・東・西御所田」町について何かご存知のこと、或は参考になる史料があればお教えいただきたいのです。現在旧大宮郷の用水路網について調べているのですが、中世〜あったと思われる「字御所田」が現在の「上・東・西御所田町」に当たるのかしりたいのです。よろしくお願いいたします。 (2022.04.28 11:45:03)
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