カテゴリ:展覧会など
ざっと感想。
『ポルト・アルグエル』 1923年 展示してある絵画だけで言うと、この作品でダリは絵画の水準を獲得した、という感じがする。 『子供-女の記憶』 1931年 懐中時計はダリの卓抜な「描写力」そのもの。シンメトリックに配置されたこれらの時計のなかのネックレスのは、なんとなく女性を思わせる。血の涙を流し苦悩(?)にゆがむ表情を見ていると、どこからかオペラのアリアが聞こえてきそう。まるでベルディの登場人物のようなジレンマと苦悩を背負っているのだが、聞こえてくるのはレオンカヴァッロ系。 鍵穴のない鍵、さまよう鍵、この時ガラとはどんな関係だったんだろう、とつまらないことを考えてしまう。 『自画像』~『ジャワのマネキン』までの第一の区切りは、通してみたあと二度目に見たら退屈だった。初めて見たときは新鮮でとても良かったが。つまりこれ以降のダリッチが進歩もし成長もしたという証だろう。 著述関係では、文字の細かさ。細密な「描写」をする同じ手が、こんな文字を書くというわけ。 ほとんどダリッチとは関係ないことだけど、漱石も「蠅の目玉」のように細かい(そして几帳面な)文字を書いたとか何とか。 ダリッチも見ようによっては結構几帳面? というか、「偏執狂的」といえばいかにもダリッチの文字らしいという感じもするが、そんな感じはしなかった。 『ヴィーナスの夢』 1939年 パリ万博パヴィリオン 面白いのは、主催者に抗議するためのビラ『想像力と狂気に対する人間の権利の独立宣言』に描かれた、ボッティチェリのヴィーナス。胸のあたりから鱗になり、頭が魚になってる。 マックス・エルンストにも似たようなのがあったような(うる覚え)。 この万博のことでは、ダリッチはそうとう怒っていたと見える。 『ヴィーナスの夢』(キリンが炎のたてがみを吹き出し、枝にどろ~、ぐにゃ~の懐中時計が引っかかっているあの有名な絵)は、怒りに満ちている。図録の解説は褒めているが、僕はもうひとつ、って感じ。「細密画」がなく、おまけに怒りに満ちているなんて・・・。 ダリッチの絵は、シュールレアリズムというより彼の写実主義的内面「描写」なのだから、心の中の不安や喜びや愛がほとんど素直に表現されている。 スペイン内乱を避けてイタリア亡命中の『パラディオのタリア柱廊』なんかはほとんどストレートな不安の表出だ。ちょっと別人の絵のようにも見えてしまう。意図的にぼかしたりすることはあっても、線がかすれるなんてそういうことはダリッチにはあまりみられない気がするが、このくらい絵は別。 そして、『3つのガラの顔の出現』。1945年。 この絵はこの展覧会の中でもっとも気に入った絵。というか、もしかしたらダリッチの絵の中では一番素敵で好きなものかも(って、ダリッチのすべての絵画を見たわけではないから何ともいえないが、その可能性はある)。 この絵は、妻のガラに対する愛情と絵を描くという行為に対する愛情、そしてその二つによってえられる幸福に満ちている。絵の大きさも20.5×25.5センチとこじんまりとしていて、その大きさが、ダリッチが慈しみをもって描く大きさとしてはちょうどよい、といった感じまでする。 奥さんも今回の中ではこれが一番好きだと言った。そして、理由もほとんど同じだったのには、驚き。展覧会とか、そのほか、趣味や好みはだいたいあんまり一致することはない。一致したとしても、理由はぜんぜん違ったりする。この絵にはそんな力があるのだ。 『壊れた橋と夢』1945年。 この絵を見てすぐに連想したのは、『パルナッソス』とダッドの『黄泉の国へ』。『パルナッソス』はクレーではなく(『パルナッソス山』)マンテーニャ。 もしダリッチのこの絵が、パルナッソスと関係があるとするなら、ギリシャ的理想郷であるパルナッソスが壊れた、ということにもなる。橋は途中で消失して、そこに行けないということになる。ダリッチの理想や夢を破壊するような出来事でも起きたのだろうか? 絵画の構成に素直に表されている「ダブル・イメージ」だけではなく、こういう「ダブル・イメージ」の可能性はないのだろうか? 僕の疑問に答えてくれるようなことは、図録に書かれていない。 『聖セシリアの昇天』1955年。 この絵は、今回の中では二番目に好きな絵画。 核融合や核分裂といった、核反応のまさにその現場をダリッチ的写実主義で描いている。つまり、原爆や水爆の内部を耐核反応ガラスでできた窓からのぞき見ている、そんな雰囲気。あるいは、見ているこちらが核反応のまっただ中に放り込まれたような。 聖セシリアは、蒸し風呂の刑に処せられた殉教者(例によって殉教者たちに与えられたたぐいまれで驚くべき忍耐強い肉体によって蒸し風呂の刑では死ななかったので、斬首された)。なるほど、核反応=蒸し風呂の刑。 しかしそんなことよりも、これはやはり、核爆弾によって一瞬にして蒸発してしまう人間を、ダリッチ的な写実主義によって描いた作品だろう。それを想像しただけで気分が悪くなるが、同時に、画面いっぱいにばらまかれているサイの角のようなこれを見ていると生理的にも気分が悪くなる。が、なぜかセシリアがエロチックに見えてしまう。セシリアの描かれ方が、バルトが『テクストの快楽』のなかで言う「裂け目」のエロチックさそのものだからかも(なんて気取って言わなくても、たとえば、スカートのスリットといえばいいのに)。 『ガラの足』 立体視絵画 1975~1976年。 これは今どきの3Dってやつだ。今のは赤と青の眼鏡をかけるが、これは別の仕掛けで立体的に見える。が、同じことだ。 驚くのは、そんなのをわざわざ描いてみよう、つくってみようと思うダリッチのやっぱり偏執狂的な創作意欲。ほんとに、お馬鹿じゃないの? といいたくなる。が、そこがダリッチの愉快で面白くて、突き抜けてるところ。 図録ではこれはダリッチの「最先端の高等数学や云々」など「科学的発見」への興味というようなことが書いてあるが、同時に、これこそ「ダブル・イメージ」の(数学的・科学的)ヴァリエーションなんじゃないの? 二つのイメージ(像)が科学的仕掛けによって、ひとつのイメージに溶けあうのだ。 また、この絵を見ると、吉本隆明の「対幻想」を連想してしまう。「ダブル・イメージ」と「対幻想」。ダリッチが「対幻想」の画家だった、などというエッセイはどこかにないだろうか? しかし、なぜ、『足』なのだろうか? ガラのこの足の裏に「仏足石」のような模様でも見えるのか?(見えない) それとも、谷崎潤一郎のような嗜好がダリッチにもあったのだろうか?(多分、ない。でも、ガラがミューズだとすると・・・) どうでもいいことだが、ガラの足がじゃんけんの「チョキ」なのも面白い。ちなみにダリッチの手も、「チョキ」だ・・・(?) 『メイ・ウエストの部屋』1974年 この『唾液ソファー』の掛け心地はどうなんだろう? なんか、そそるものがある。が、そそられて座るのはいいが、あくまでも「鼻の暖炉」には要注意だ。座っていていい気持ちになっている隙に、誰かが暖炉の鼻の穴を薪でごそごそやろうものなら、さあ、大変。冬の寒空に放り出されてしまうかも知れない、メイの馬鹿でかいくしゃみで。 『靴型の帽子』1938年。これは、烏帽子に見える。ガラの着ているジャケットのポケットの唇の方が僕は面白い。 『ブライアン・ホーザリーの広告 ヴォーグ誌』 とくに113番、1943年3月15日。 椅子の中に蝶や毛虫やサナギが描かれている広告。まったく、ダリッチの副業のような仕事。でも、これを観たとき、僕はある考えが浮かんだ。 ダリッチの本質、それはまさにこの輪郭線なのだ、と。今までの絵画の中でもふんだんにものを言っていたあれら細やかで緻密で奔放な輪郭線。 たとえば、ここに花瓶があってそれを白い紙にペンで「描写」するとする。ペンで黒いインクで紙の上に描かれていく花瓶。しかし、実際、花瓶には「輪郭」はあっても「輪郭線」などというものはない。紙に「描写」すること自体が、すでに「絵画」という「フィクション」に組みすることなのだ。「フィクション」、あるいは、「幻想」(そういう意味で、「輪郭線」が存在するところに「写実」など存在しない。文学でも、今更言うまでもないが、言葉による描写である以上、「写実」など存在しない)。 ダリッチは、その「輪郭線」がピカイチなのだ。しかも、その「輪郭線」は時として人々が見ている様なものとして完結しようとしない。あっちへまがったり、こっちへ出かけてみたり・・・しかし、「輪郭線」である以上いつかはスタート地点に戻ってこなければならない。その結果、懐中時計はよれよれの洗濯物のように木の枝にぶら下がる。 ダリッチの手は、そんな「輪郭線」の要求に従ってただペンを握っているだけ、ともみえる。 また、この「輪郭線」による「描写」のすごさは、「シュールレアリズム」などというチンケな額縁をやすやすと凌駕している。ダリッチの「描写」力を持ってすれば、いつ、いかなる時代でも、絵描きとして大成しても不思議ではないという気までしてくる。一見シュールレアリズム風の奇怪なイメージは、この「輪郭線」が、まるで液体に溶けこんだ物質が何かの条件を与えられることで自然に結晶して析出するように、ごく自然なことなのだ。いつ、いかなる時代でも、いかなる文化においても、やっぱり、ダリッチは情けない洗濯物のような懐中時計を描くことになるのだ(もちろん、懐中時計がないところでは描けないが、べつのものが洗濯物になるだけのことだ)。 シュールレアリズムの方法のひとつに「自動書記」というのがあるが、ダリッチのは、むろん、それとは違う。ダリッチは、「輪郭線」がもつ意思と幻想性のままに手を委ねているのだ。 とにかく、僕にとって、ダリッチの細密画の輪郭線は、とても魅力的で、平凡な蝶を描いているだけに見えるようなものでも、すでにそこには幻想の陽炎のようなものが揺らめいて見える。凡庸な画家なら、いくら緻密に描こうとその輪郭線自体が幻想を破壊してしまう(つまり、絵画としてのリアリティを無にしてしまう)が、ダリッチの輪郭線や線は、まさに生きていて幻想的なリアリティを描かれたものにまとわせるのだ。 いや、そうではなく、僕にとって、ダリッチの蝶は、まさに、蝶であって蝶でないもの、なのだ。凡庸な画家なら蝶でないものでしかなく、平凡な画家なら蝶でしかないもの。ダリッチの蝶は、そこに描かれているのは蝶なのに、しかし、蝶ではない。ダリッチの「輪郭線」の魔法にかかると、あえて「ダブル・イメージ」などとそんな明け透けな絵をあげなくても、「描写」されたものすべてが「ダブル・イメージ」なのだ。 ダリッチの魔法の本質はこの「輪郭線」なのだ。 そういう意味で、僕は、ダリッチに昆虫の図鑑だの蝶の図鑑だの、一見それとしかみえない、一見そのものを正確、緻密に「描写」したとしか見えないものを、描いて欲しかった・・・。 ダリッチの描いた図鑑、そんな話をすると奥さんはイマイチだと言ったが、こういう理由から僕は、ダリッチの図鑑の幻想に浸っているのだった・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/04/26 11:46:43 PM
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