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上生的幻想

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2007/06/21
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テーマ:★お菓子★(2734)
 
 奥さんが月一回参加している「茶道セミナー」のおみやげ。
 というのも、今回のテーマが「菓子について」というもので、講師は末富の専務取締役・山口祥二氏。
 レジュメを見ながら内容を聞く前に、味見。
 
070619 018.jpg 070619 020.jpg
 
 本葛(100%)に漉餡が混ぜ込んで、焼いてある。
 何故葛が夏の菓子か、というと、見た目や触感からくる涼感はもちろん、葛というのは実は温度変化に弱く、夏は冷えないから、だそうだ。冷やすと、濁ってしまう。
 しっとり、ぷゆんぷゆん、としている。ある意味、冷やしていない水ようかん。上あごと舌で押しつぶすと餡のきめが感じられる。
 甘すぎず、控えめな、おとなしい風味。穏当、というか。
 
 風味のスタイルについていえば、たとえば、「三角形とは?」と聞かれたとき、末富がだした答えは、「三角形の定義」そのもの、といった風情。
 ただし、三角形の定義なら言葉によっても表現できる。だが、その定義通りで過不足なく、また、誤解を与えない三角形の図形を描こうとすると、実は並大抵ではない。もし、間違って正三角形なんかを書いてしまったら、三角形とは正三角形のことだと思いこんでしまう人がいるかも知れないし、あるいは、もし赤鉛筆で描いてしまったら赤くないといけない、と思い込む人がいるかも知れない。だから、そういうふうな誤解を招かないように、誤解を招きそうな要素をひとつずつ丁寧に注意深く取り除いていって、できあがった三角形の図形、それがまさに、この葛焼きのスタイルだ。
 この葛焼きの餡の風味は、小豆の風味の要素の何かを強調したり、弱めたり、削ったり・・・などなど特に加工したとい感じはなく、とてもナチュラル。小豆の持っている雑味のようなものまで、すべてをすっかりやさしく葛が押し包んでいる。小豆の風味をナチュラルに出すということは、定義のレヴェルにより近づくために不必要な要素を注意深く丁寧にそぎ落としていくこととは矛盾しない。とても、水準の高いお菓子。
 
 「三角形の定義のようなお菓子」という言い方には雅味がないので、ちょっと別の言い方をすれば、禅でいう「○△□」のようなお菓子。「世界」とは「○△□」という形に抽象化できる、いわばこの「○△□」は「世界」のエッセンスとでも言うべき図形なわけだが、僕が言いたいのは「世界」を抽象化するとこの「○△□」になるということではなく、そのように抽象化する思考法のことで、末富のこの葛焼きとは、そのような思考法によって抽出されたお菓子だと言うことだ。
 茶道と禅はとても関係が深いが、それだからこの葛焼きには「禅味がある」というのではなく、禅や茶などを越えたところにあるこういう思考法が生み出したお菓子だからこそ、日本の茶道という文脈では「禅味」につながるだけのことなのだ。だから、最初に禅的なイメージの「○△□」ではなく、「三角形の定義」を引き合いにした。
 
 「葛焼きとはなんぞや?」という命題にたいして、丹念に注意深く吟味し不要なものを取り除き、より本質的な部分だけを抽象化して出来た、この葛焼き。こんなふうに出来ている菓子が、素晴らしくないわけはない。
 また、このように本質的なものだけを取り出そうとすれば、ややもすれば、それは、やせこけた骨と皮ばかりになりそうなものだが、そういう貧相さとは無縁な、このふっくらとした豊かさ。それは、素材の良さを、ナチュラルにいかす技があればこそなのだろう。
 
 以前、「上生菓子とは、風味はニュートラルで、そのテーマや姿や銘によって、まさにそんな風味が感じられるもの(素材の風味が、姿などが醸し出すあり得ない幻の風味や風情をすくなくとも壊さないこと、もちろん、それらを引き立てるならもっといい)、が僕にとっては理想の上生菓子」、というようなことを書いたが、その観点からすると、末富の上生菓子というのはとても楽しみ。あるいは、まさに、そういう上生菓子を作るために末富という菓匠が修得し洗練させてきた技や方法というのが、この本質的な部分だけを抽象化するという方法と技であり、それによってつくられた葛焼きなのだともいえる。
 
 だが・・・その一方、「三角形って何?」と言う問いに、こんな答えも可能ではないだろうか?
 「それは、たしかに一見三角形なのだが、見る方向によっては長方形にも見える、何か」とか。
 これは、たとえば三角柱のような立体をイメージしたのだが、こういう遊び心があってもいいのではないだろうか?
 あるいは、「光を通すと虹を作り出すもの(三角柱のプリズム)」だとか。
 たしかに、「三角形とは何?」という問いに対して、これらの答えはズレているし、不要なものが含まれている。でも、こういうおもしろさ、遊び心、知的な冒険心、スリリングさ、そういったものを、残念ながら、この葛焼きは持っていない。
 この穏当さ、安全さ。そして、それ故の、この退屈な一面。この退屈さは、今時の、何々流のお茶(作法通りの取り合わせ、作法通りの道具、そんな空間で行われる作法通りの茶道)の退屈さに通じているように思う。
 
 三角形の定義は時を越えて、多分、不変であり普遍であり、それゆえの美があるのだろう。この葛焼きもそれに近いものを持っている、といえるかも知れない。しかし、それとは逆に、「無常」にも美はあるのだ。
 
 
 以前、末富の「うすべに」と「麩の焼き」を食べたことがあるが、印象はまったく同じ。
 穏当な豊かな世界。
 そして、この穏当な豊かな世界の素晴らしさ。その反面の、一抹の物足りなさ。このジレンマ。
 葛焼きなど、これらの末富の菓子に思いを巡らせるほど募っていく素晴らしいという感嘆と、同時に、比例して大きく成長していく、この物足りなさ。
 この一抹の物足りなさは僕の個人的な好みによるものだとしても、末富のこれらの菓子は、菓子に対する哲学とそれを実際のものとする技との非常に高次な次元における結晶である。





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Last updated  2007/06/21 11:00:54 PM
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