カテゴリ:おたべやす 京都 和菓子編
![]() どうみても「桃の果実」をかたどったこのお菓子の銘が、何故、「西王母」なのか。 西王母というのは中国の天女(もとは女性の顔に獣身という異形の神だったが、時代が下がるにつれて、神仙思想の影響の元、とうとう天界一の絶世の美人仙女となった)。天界の最高仙女で、彼女の園には桃の木があり、その実である「王母桃」を食べれば不老不死をえられるといわれている。 能にも『西王母』という演目があり、この「王母桃」を巡るお話。 つまり、この桃はただの桃ではなく、不老不死の「王母桃」をかたどったもの。 田道間守(たじまもり)が持ち帰ったという柑橘類をかたどった「花橘」と同じ趣向のお菓子だ。 どちらも、ただの「桃」やただの「蜜柑」ではなく、超自然的な果実であり、呪術的な意味合いをもったお菓子だといえる。 この時期、店頭に並ぶのは、そろそろ桃の果実のみのる季節ということもあるかも知れないが、もう一つ、西王母が七夕の織女の母親だという伝説があり、そのことにも由来するのだろう。 ところで、「桃の実」というと、黄泉の国から逃げてきたイザナギが黄泉の軍勢を追い払うのに桃の実を使ったことから、邪気を払う力があるとも。 桃太郎が何故鬼を退治することが出来るか、というのもこの『古事記』の民衆版といったところ。 つまり、この「西王母」は、中国系の伝説(たぶん直接的には能の『西王母』から取材したのでは?)のその不老長寿の力とともに『古事記』系の邪気を払う力をも持っている(かも知れない)、いわば、「一粒で二度おいしい」お菓子。 「桃のようなほっぺ」というわけではないが、赤ん坊の頬のようなういろう地は、ちょっと触れると、かたちが崩れてしまいそうなほどの柔らかさ。 種の白餡の色あいは、桃の果肉のそのものようなみずみずしさ。 そんなういろうと白餡を口に含むと、不思議なことに、どこからともなく桃の果肉そのものの甘みや酸味が香り、余韻も、まるで桃を頬張ったあとのよう。 もともとのういろうや白餡の風味のあとに、ほのかに香ってくるみすみずしい桃の風味。天界の桃とはこういった感じなのかな、といった風情。 *** 俵屋吉富の七夕体験教室に行ってから、和菓子(上生菓子)というものが、実は非常に呪術的なアイテムだ(った)、ということが頭から離れない。 むろん、すべての上生菓子が呪術的な要素を持っているわけではないだろうが、かなりの菓子が持っているような気がする。 上生菓子を鑑賞する、というのは、風味、姿・形(また、姿・形から来る幻想的風味)、また、呪術的意味合いを「味わうこと」なのだと、今はそういう感じになっている。 グルメ(風味)、アート(姿・形・色、つまり、造形的美)、文学・民俗学(由来や銘)、季節感、これらのどれにも偏らず上生菓子を楽しむ、でも、それだけでは面白くないので、これらをふまえた上で、また別のアプローチができないか、最近はそんなことを思う。 とにかく、上生菓子の多くのものは、ハイブリッドなのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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