|
テーマ:ひとりごと(15092)
カテゴリ:the world
常日ごろ文章を書いてみて思うのは
案外接続詞を多用する性質だということだ。 接続詞を用いると、文脈を捉えやすいので 不特定多数の人を想定して、できるだけ過たず読んでもらうためには、一定程度必要なものだと思っている。 が、私の携わる仕事で、ある程度権威とされているらしい人の書く文章で 全然接続詞を用いないケースを目にすることがある。 接続詞がなくても、文意を取ることは文脈上可能で、だからこそあえて接続詞を省略しているのかも知れないけど 連ねられる文章を読んでみて初めてつながり方が理解できるというのは あかの他人には迷惑な書きぶりと思う。 なぜ思考の流れを逐一後追いしてあげなくてはならないのか、と思う。接続詞を用いてくれれば文意は自ずと明らかになるのに。場合によっては接続詞のみを追っていけば、いちいち文章を読まなくても論旨を捉えられるはずだ。読んでみてはじめて判断できるというのは読み手の時間を消耗している、と思う。 友人以上の知人の書くものや、文学的文章ならそれでもいいけど。 とにかく、読み手の捉え方に阿る(おもねる)その態度が基本的に気に入らない。ましてや公に発表する論説文で。言いたいことがあるならはっきり書けば?ぼやかしたところでどっちみち名文でもないくせに、と不遜にも思うのだった。 とにかく阿られるのが嫌い。 --- なんだか「怒りの不連続シリーズ」(みのもんた風)、になってきましたが 本日の機嫌は普通によろしうございます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|