以前
「善通寺の逆襲?」という日記を書きました。
「善通寺が『弘法大師畿内誕生説』に反論」
しかも
「決定的な証拠を突き付けた」
ということで、そのコピーを送っていただきました。
送っていただきました善通寺派のM僧正には感謝いたします。
早速、内容を確認いたしました。
送っていただいたのは、一週間ぐらい前なのですが、
多忙と内容を吟味したため、公表が遅くなりました。
反論者は高野山大学教学部長 村上保壽 僧正
高野山大学名誉教授にして密教系の著作もある方です。
「弘法大師畿内誕生説」を唱えられている
武内孝善教授は高野山大学副学長。
余談ですが、武内教授は高野山大学出身者にして、その経歴の
ほとんどを高野山で過ごされた生粋の真言学僧。
一方、村上僧正は東北大学出身で、他大学で教鞭を取った後
高野山に来られたいわば外部出身者。
立場からすると逆のようにも思えて面白いですね(*^_^*)
1、妻訪婚についての疑問
武内教授の弘法大師誕生説の中心をなしているのは
「妻訪婚」である。
当時の結婚形態として
a、婚姻の当初には訪婚(妻訪婚)が行われていた。
b、『10年を過ぎると』夫婦は同居し一つの家族として
生活した。
武内教授の説は、ここから弘法大師が阿刀家(母の実家)で
育てられたとしている。
しかし、『10年を過ぎると』の部分は武内教授が引用した
学者の論文の原文には無い。
また、当時の結婚形態については武内教授が引用した学者の
論文には「夫婦は自分たちの住む屋を作るのが一般的」と
あるので弘法大師の父母は双方の実家から独立した新しい
住居を構えて生活したと考えられる。
2、兄弟と母阿刀氏の関係
弘法大師には二人の兄と姉がいる。
この三人と弘法大師は異母か同母か。
訪婚が行われていた期間は一般には長子だけである。
「三教指帰」によれば、
「老いた親は、髪の毛が白くなり、お墓に近づいている」
とあるので、母の阿刀氏は姉を17歳ぐらいで出産したとしたら
弘法大師が24歳のころ、50歳ぐらいと推定される。
もし、異母兄弟として弘法大師が長子であったとしたら、
母は41歳ぐらいで墓に入るような歳ではない。
「二人の兄が次々と亡くなったので、涙がいく筋も流れる」
これは幼少期に兄の死の体験に基づくものではないか?
したがって、弘法大師には同母の三人の兄姉がおり、
長子とは考えられないので、阿刀氏の実家のある畿内
ではなく讃岐で生まれたと考えられる。
3、畿内誕生説の欠陥
弘法大師がもし畿内で誕生したとしたら、必ず畿内に伝承が
残っているはずなのに全くない。
「続日本後記」の「大僧都空海伝」には
「讃岐の人、他度の郡の人」と記述されている。
弘法大師の「三教指帰」に
「玉藻よるところの島、予(当て字)樟日を隠すの浦に住す」
と描写されている讃岐の屏風が浦で誕生されたことは
学説的にも明らかである。
以上概要を書かせていただきました。
これに対する私の感想を書く前に、宗教を扱う難しさを
書きたいと思います。
弘法大師は中国に滞在したのはたった二年、
しかも、長安にいたのはたった1年。
それにも関わらず、なぜ、密教の奥義を伝授されたのか?
これに対する回答をこう書いている人がいます。
~~~~~~以下引用~~~~~
たまたま当時の唐の都は密教全盛時代だった。
空海はその拠点である青龍寺を訪れた。
長安に入って六ヶ月後のことである。
その日を最も心待ちしていたのは、空海自身ではなく、
青龍寺の恵(けい)果(か)であったにちがいない。
空海が恵果に出会ったのは「偶然だった」と
後に『請来目録』の中で書いていることに関して、
ほとんどの史家は懐疑的で、司馬遼太郎などは
「不正直」と断定しているが、まさか。
本来なら異邦の一介の留学生が、インド密教の法灯を
伝える大唐帝国の国師たる恵果に面会することなど
できえないし、ありえない。
それが、会えたどころではなく、いきなり満面に笑みを
浮かべて恵果が発した言葉が、
「われ先(さ)きより、汝の来たれるを知り、
相(あい)待(ま)つこと久し。今日、相まみゆるは
大いに好(よ)し、大いに好し」であった。
恵果は一千人余の弟子をさしおいて空海に、
すぐさま灌(かん)頂(じょう)を授け、みずからの
後継者としたのである。
真言七祖恵果に継ぐ八祖空海という系譜が、
こうして生まれた。
その年の暮れ、十二月二十五日に恵果は示寂し、
師の碑文を空海が書く。
劇的すぎる話の展開であるが、従来の史家のように、
空海を、とびすぐれてはいるが、あくまでも異邦の
一介の僧侶と考える限り、この事態は説明できない。
一介の日本人僧侶ならばありえない行動をし、
ありえない結末を迎えた。
説明可能な理由は一つしかない。
恵果はブッダに遭遇したのである。
エンサイクロペディア空海
~~~~~~以下引用~~~~~
長々と引用しましたが
つまり、弘法大師は「ブッダ」であるという説です。
一見「トンデモ説」のように見えますが、
これを書いた方は真言宗でも名が知られた学者の
宮坂宥洪 師です。
このように真言系の学者の方は、
「合理的思考より信仰を優先する」
方が少ないように思えます。
ちなみに宮坂宥洪 師のお父さんの宮坂宥勝先生は
逆に合理的思考をされる方で
「弘法大師は火葬された」
という弘法大師伝を書いてもの凄い批判を
受けた方です。
信仰の世界においては
「神格化VS合理的思考」が絶えずあります。
「弘法大師に対して合理的な捉え方をするのは畏れ多い」
という意見の一方で
「弘法大師を一人の人間として捉える」
という考え方が出るのは当然です。
私はどちらかと言えば後者です。
だからといって、「信仰が無い」というわけでは
ありません。
むしろ、「伝承の弘法大師」しか伝えないことは
「真言宗の教え」を捻じ曲げて伝えることに他なりません。
本物の弘法大師像を誰が明らかにするのか?
一般の学者には無理でしょう。
信仰の裏付けがある「真言学僧」こそが本当の弘法大師の姿
を明らかにできるのではないでしょうか?
さて、「善通寺の反論」については個人的な感想もありますが
送っていただいたM僧正からも「疑問にはお答えします」
と言われておりますので「善通寺」に問い合わせてから
アップしたいと思います。