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カテゴリ:音楽・テレビ・映画・小説
政府が行おうとしている教育改革についてかなり批判的な立場です. 教師が置かれている状況を十分に理解しているからこその提言がみられます. たとえば,教師たちが社会人としての幅のある市民生活を過ごせていないことが,そのまま学校での学習指導力の低下にもつながっていることを暗示する分かりやすい例をあげています. 2002年から段階的に,小学3年生から高校生までを対象とした「総合的な学習の時間」が取り入れられたときのこと. 総合学習は,学校・家庭・地域が連携した体験学習などを通して,環境問題や,福祉・健康問題を学び,国際化・情報化していく社会の実情を学んでいこうとする教科です. これは,変化の激しい時代の中で生きていく子どもたちの”社会の中で生きていく力”を育成しようという目的で創設された,社会に開かれた学習教育です. これからの学力でもあります. 各地でいろいろな体験的学習が行われていますが,テーマ設定やその背後にある問題意識など,教師の目の付け所がずれていれば,生徒にしても何をどのように学習すべきなのか分からなくなるのも当然です. 他教科を学ぶ時間を割いて行われる総合的学習が学力低下とつなげて語られることも多く,「縮小・廃止すべき」という強い批判の声も聞かれるほどです. 社会に開かれた学習内容を保証するためには,教師自身が社会に開かれていなければならないのは当然です. こうした場面での指導力が問題視されるのも無理からぬことです. 一方,教師の権威はかつてほどではなくなっています. 文部科学省や教育再生会議などから,「毅然とした指導を」するようにと促されていることを見ても,教師の権威の低下がうかがえます. 子どもを叱るばかりが教育ではありませんが,必要に応じて子どもを叱ることができるようになるためには,教師自身が揺るぎのない生き方をしていなければなりません. 子どもを叱れない教師が増えているということは,生きる信念を持った教師が少なくなり,ダメ教師が増えてきているということにもなりかねません. それだけでも,「教師力は低下している」と,いえてしまうのです. こうした問題に対して,教育に目標管理型の評価システムなど民間企業で導入されて効果が得られている仕組みを導入する動きがあります. これに対して,尾木氏は教育の直接性が必要であると説きます. それは教育の本質から導き出されていることです. つまり,教師の教育実践は,その専門性と両親に依拠して,子どもの発達保障と人格の完成という二つの目的にのみ服するからです. このような特殊な本質を有する教育実践には高度な専門性が必要ですから,時の政治権力や行政官僚の「不当な支配」の下におかれてはなりません. したがって,教師は今日,批判を浴びるような独善性や閉鎖性に陥ってはならないのです. つまり,「国民全体」の意思に従うためにこそ大胆に学校を開き,父母や地域と共同した実践を展開する必然性が存在しているのです. では保護者が教師に求めている条件は何か. NHK「少年少女プロジェクト」の調査によると,保護者たちが,授業の分かりやすさについても重視しているのは確かなようですが,やはりそれ以上に,子どもの心を理解でき,いじめや非行などを防いでくれる教師を理想として望んでいることは事実のようです. ---------------------------- 教師の置かれている厳しい実態がよくわかりました. 教師の生の声を知っているからこそ,その窮状を少しでも訴えたい尾木氏の思いが伝わってきました. さまざまな政策の根底に子どもの目線が欠けているという指摘は非常によくわかります. 教員同士のいじめ,教員評価システムなど成果主義の導入,残業による過重労働,校長や教育委員会のトップダウンによる上意下達など,個々の教員の意思や心がないがしろにされる環境下でどうして子どもの豊かな心が育てられるでしょうか. 教育をないがしろにする国に将来はありません. そのことにわれわれはもっと注意を払うべきです. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.07.27 13:44:26
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