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カテゴリ:音楽・テレビ・映画・小説
東日本大震災にみる広域システムの特徴を,東北地方の周縁性と関連付けて論じています。 特に支援の中心-周辺の関係で興味深い記述がありました。 今回の東日本大震災の市民ボランティア活動には,いい意味でも悪い意味でも,パターナリズムが強く表れたと言えそうである。 ここでいうパターナリズムには,次の二つの意味を含ませている。 第一には,中心に対する周辺の従順主義である。 これがボランティア領域に限らず,この震災で多方面に強く表れたことを本書ではずっと見てきた。 そしてこのことはによって効率的に支援活動が進んだ反面,参加する個人や,被災地周辺の小さな活動が,周辺化してしまった可能性がある。 第二には,活動のパターン化である。 第一点目とも関係するが,現場で活動していた多くのボランティアたちには,首都圏や関西圏などからの大都市出身者が多く含まれていた。 そのため地方の生活,農山漁村や地方都市の生活を知らないものが多く,さらに被害の大きさが,現場の人々とのコミュニケーションを阻害した。 今回ほど,被災現場へ行くことへの恐れ,被災者と呼ばれる人とコミュニケーションすることへのためらいが大きく表現された災害もないだろう。 被災地と交流するよりは,まずは確実に役立つことをしようという思考法が働いたことも,活動のパターン化を強く導いた要因と思われる。 ここから拾い出すべきことはなんだろうか。 むろんこうしたパターナリズムが悪いということではない。 考察してきたように,その背後にはこうした特徴を作り出してきた構造があり,それはしばしばこの震災がもたらした様々な条件をストレートに反映したものだからだ。 むしろ,次のことを指摘する必要がある。 市民ボランティアはもはや災害社会の中で非常に大きな存在となっており,それはすでにこの広域システムの中に自らの領域を確立して,市民活動システムともいうべきものを形成してしまっている。 そしてそれは,東日本大震災の被災地の復興を考えるにあたっても無視しえないものになっている。 -------------------------- 政治・経済・社会のシステムが東京を中心とする権力構造のなかにあるということを思い知らされたといえそうです。 原発再稼働は普通に再開されようとしているし,支援の打ち切りに向けた準備も水面下で行われているようです。 そこに,被災者の主体性は感じられません。 結局,支援の枠組みそのものが中心-周辺関係のなかで展開される以上,本当の復旧復興にはつながらないと言えます。 こうした分断状況をありのままにまずは伝える努力をしていかなければならないと感じます。 また,忘れがちな被災地のことについて知ろうとする努力も必要です。 一筋縄ではいかない意識の分断が進行しているからこそ,そこから読み取れる地方の論理があるのではないかと思います。 それほど従順で隷属的な存在ではないとも思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.09.18 00:01:28
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