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 四 季 折 々 (俳 句)

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奥の細道

2009年11月03日
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カテゴリ:奥の細道

 

医王寺の北側に大鳥城へ通じる坂があり、芭蕉が通ったので芭蕉坂と名がついていた。その坂を下って行くと林檎園に出た。林檎がたわわに赤く実っていた。林檎園の脇に釣り堀があり3人の男が釣り糸を垂れていた。水澄む秋なのに釣り堀は大層濁り肝心の虹鱒が居るかどうかわからない。もっとも虹鱒が見えては商売にならないので、わざと濁らしてあるのだろう。しばらく見ていたが釣れる様子もない。うお座帰りに再び林檎園を覗くと真っ赤に熟れた林檎がバサッと落ちて転がった。りんご

  林檎園りんごが落ちてきたりけり

 林檎は荷物になるので拾うのはやめた
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最終更新日  2011年02月18日 09時23分49秒
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2009年11月02日
カテゴリ:奥の細道

 

奥の院薬師堂は佐藤基治公一族の念持仏として祀られている。地元では鯖野のお薬師さまと親しまれている。薬師堂の右手には佐藤継信公・忠信公の墓所があり、佐藤一族の墓が薬師堂の裏手へと続く。

佐藤庄司と云われた基治公の長男佐藤継信は四国屋島の合戦で義経の身代わりとなり27歳で戦死。また次男忠信は後に京都堀川の館で山僧に囲まれ、義経の身代わりとなり25歳で自刃。その後無事奥州に下った義経は平泉への途中大鳥城の基治公に会い、継信・忠信の武勲を伝え追悼の法要を営んだと伝えられている。クール

基治公、乙和御前夫婦の傍らに椿の古木があり、乙和の椿と名づけられている。二人の子どもを戦乱で失った母の乙和の哀しみがこの椿に乗り移ったのか、莟のままで開かずに落ちる。椿の実が落ちていたのでいぶかしく思いつつ拾って見ると実は真っ黒で中が空洞になっていた。号泣

  いにしへの悲哀を今に椿の実

 義経の太刀・弁慶の笈が瑠璃光殿に納められている
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最終更新日  2011年02月18日 09時24分57秒
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2009年11月01日
カテゴリ:奥の細道

 

月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て尋々行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、爰に義経の太刀・弁慶が笈をとゞめて什物とす。

   笈も太刀も五月にかざれ帋幟

 五月朔日の事也。(『おくのほそ道』)

福島駅から飯坂線に乗り換え医王寺駅下車。徒歩15分で佐藤庄司ゆかりの医王寺に着く。

  ゆく秋や芭蕉の句碑の医王寺に

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最終更新日  2011年02月18日 09時27分47秒
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2009年10月31日
カテゴリ:奥の細道

 

しのぶの里のバス停「文知摺」の近くには稲田が波打ったまま黄金色に稔っていた。刈り入れの終わった田んぼには小さな藁塚が並んでいた。いずれも日が当たり懐かしく良い香りがしていた。それは幼い頃の母との思い出の香りである。ぺろり

「稔田」「刈田」「藁塚」と秋の季語であるので同時に遣うと季重ねになるので、同時には遣えない。今日は藁塚を詠むことに。

  人住みてをり藁塚の香る辺に

  今日で10月がおわります
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最終更新日  2011年02月18日 09時26分47秒
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2009年10月29日
カテゴリ:奥の細道

子規の句碑と池の間の路を2・3段上がったところに広場があった。そこには四阿があり、池の紅葉を眺めるによい場所であった。もっと進んで行くと隣に民家があった。民家と広場には境界がなく、ふと足元を見るとひっそりと秋の麒麟草が咲いていた。観音へ入ってから誰にも出会わず至福の刻が流れた。ウィンク

  独りてふしあはせ秋の麒麟草

   吟行の旅はひとりに限る
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最終更新日  2011年02月18日 09時28分28秒
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2009年10月28日
カテゴリ:奥の細道

 

明治26年夏しのぶの里へ正岡子規が訪れた。子規は《涼しさの昔をかたれ忍ぶずり 子規》と詠んだ。

今から千百四十五年ほど昔に陸奥国按察使源融(のちの河原左大臣)は、里の長者山口の女、虎女と恋をする。やがて公は再会を約束して都へ戻る。再会を待ち望む虎女は観音様に百日参りの願をかけた。だが、都からの便りはなく、満願の日に麦の穂先で文知摺石をこすると、恋しい融公の面影が石の面に表れる。それもすぐに消え虎女は恋いこがれるあまり病に倒れる。やがて都から一通の歌が虎女のもとに届いた。しかし虎女の病は重く、間もなく息絶えてしまった。という伝説がある。クール


  みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえに
       みだれそめにし我ならなくに

                『古今集恋四・小倉百人一首』


文知摺石の上は公園になっていて池の回りのかえでは虎女の心のように紅く燃えながら散っていた。子規の句碑は池に面して建っていた。

  色葉散る昔を今に忍ぶずり

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最終更新日  2011年02月18日 09時29分31秒
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2009年10月27日
カテゴリ:奥の細道

今週は野川を離れ芭蕉の足跡を辿り東北しのぶの里へと足を延ばす。

 あくればしのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。遙山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍りしを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云ふ。さもあるべき事にや。《早苗とる手もとや昔しのぶ摺 芭蕉

新幹線福島駅東口バス3番ポールから宮下町・大波経由掛田行き「文知摺」(20分)下車進行方向を直進し徒歩5分のところに文知摺観音があり、しのぶもぢ摺の石はこの境内にあった。いろは紅葉がこの石を照らしているかのように見えた。(つづく)

  もみぢして文知摺石を照しをり

 明日もまたしのぶの里の様子を書きます
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最終更新日  2011年02月18日 09時30分17秒
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2008年11月05日
カテゴリ:奥の細道

 

国府多賀城から塩釜、松嶋へと一人で吟行し、松島大観荘の句会場で皆と合流した。グループで吟行すると、同じ時間・同じ場所を詠むので、どうしても同じような句が出来る。ところが、一人だと句会で自分と同じような句が出ない。兎に角句会で類句が出ると、両方の句が駄目になってしまうので要注意。そんな訳で真の俳句は孤独の中から作られると言っても過言ではない。

今回「末の松山」とホテル近くの「雄嶋」に寄らなかった後悔がある。またの機会としたい。

吟行の途中いろいろな秋草を見たがなかでも鳥兜と朝霧草は特に珍しい花なので、ここに載せ置く。

   鬼房の句碑への道や鳥兜

  朝霧草漁(すなどり)舟の出てをりぬ

 
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最終更新日  2011年02月18日 09時31分02秒
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カテゴリ:奥の細道

「奥の細道」出発前の悲しみを手紙に
             (産経新聞11月4日の記事より)

会場 山寺芭蕉記念館
展示 芭蕉直筆の手紙*
会期 平成20年11月16日まで

この程見つかった芭蕉直筆の手紙によると、「奥の細道」へは門人の路通(ろつう)が同行するはずであったが路通は旅の二ヶ月前に急遽関西へ旅立った。

手紙は、元禄二年閏一月二十日(1689年3月11日)の日付で、「鳥金右衛門」(江戸の武士)に宛てたもの。それによると「昨日より泪落しがちにて 忘々前と」などと、悲しみに暮れる心情を吐露している。実際の旅は門人曾良が同行している。







最終更新日  2011年02月18日 09時33分49秒
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2008年11月04日
カテゴリ:奥の細道

 

港続きに五大堂がある。五大堂へは朱塗りのすかし橋を渡って行く。すかし橋は足下に空間があり海が見えるので子どもや高所恐怖症の人は気をつててゆっくり渡った方がよい。

五大堂縁起】平安時代初期の八〇七年、坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、八二八年、慈覚大師が瑞巌寺の前身松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂とよぶようになった。現在の建物は一六〇四年、伊達政宗が紀州の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王を安置する。有名な蟇股の彫刻など、雄健な桃山建築として、国重要文化財に指定されている。瑞巌寺


五大堂の周りは松で覆われていてその松には沢山の青松毬が付いていた。

  盗みたき青松毬や五大堂

 次は奥の細道番外編で締めくくりとします
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最終更新日  2011年02月18日 09時34分35秒
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