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カテゴリ:旅行
丑寅の二人旅 第71弾 名残りの紅葉? 美濃・三河 2日目-3・3日目
香嵐渓・足助の豊田市(西三河)から奥三河の新城市に移動 かの有名な長篠の戦いの古戦場 「長篠の戦い」と言われますが、主力部隊が衝突した主戦場は、長篠城から西に5km程の設楽原(したらはら) 戦いの様子を学ぶ為に、設楽原歴史資料館に 日本戦史上初めて鉄砲隊を編制、大量の鉄砲が使われた長篠の戦い 騎馬で攻めかかる武田軍を、馬防柵越しに鉄砲隊で迎え撃つ織田・徳川軍の絵図 信長が準備した鉄砲は3000丁 鉄砲が注目された戦いだけに、資料館には多くの鉄砲が展示、長篠の戦いとは無関係の鉄砲も 設楽原で400年以上続いている火おんどり、一種の火祭りですね 長篠の戦いの後、間もない頃に、多数の戦死者を葬った信玄塚から大量の蜂が発生し、人々を刺しながら飛び回りました、戦死した武田軍の亡霊だと考えた村人達が、霊を慰める為に、鉦や太鼓のお囃子にのって、大松明(長さ2-3m・太さ80cm)を燃やして振り回しながら踊り供養したのが祭りの始まり 戦いでの武田軍の戦死者は10,000人と言われていますが、5,000人程度だったと言う説も 写真は藁を編んで松明を拵えている様子ですね 資料館に飾られていた能楽の絵 この地は能楽が盛んですが、長篠の戦いで功績のあった長篠城主奥平信昌が、この地に築いた新しい城(新城城)の落成祝に観世宗主を招き祝能を催したのが始まりで、その後庶民の間で広まっていったとか 富永神社の祭礼能として、プロでなく素人が舞う全国でも珍しい奉納能 織田信長が考案した馬防柵(復元) 土屋昌次、武田の武将、馬防柵の2重を突破、3重目で鉄砲隊の一斉射撃で討ち死に 長篠から設楽原にかけて、馬防柵・信長本陣跡・各武将の陣地跡・真田/甘利など主たる武将の討ち死に場所等多くの碑が 80箇所近くあります 設楽原から長篠城趾史跡保存館に 色々展示されていますが、一番人気は、多分これ スーパー足軽「鳥居強右衛門」のレリーフ 長篠の戦い、発端は武田軍15,000人が長篠城への攻め込み 対する長篠城主奥平昌次は500の兵で籠城 兵糧庫を焼かれ落城寸前、鳥居強右衛門は志願して、密かに城を脱け出し、徳川の岡崎城に駆け込み、援軍要請のミッションを達成 援軍の朗報を報告すべく長篠城に戻る間際で武田軍に捕らえられた強右衛門、「援軍は来ないと叫べば、命を助ける上に褒美も授ける」との武田軍の申し入れに従うふりをして磔台に、ところが「援軍は直ぐ来る! 頑張れ! ファイト!」と大声で叫び、激怒した武田兵に刺し殺されました レリーフ右下: 長篠城の堀を泳いで脱出する強右衛門 レリーフ左下: 武田軍に捕らえられる強右衛門 レリーフ上 : 磔にされた強右衛門、ふんどしから黒々とはみ出してる・・・毛?・・リアルなの? こちらは、強右衛門の像、凄くリアル 表情が (クリックで拡大します) 長篠の戦い絵図 織田・徳川軍勢38,000+長篠城手勢500、武田軍15,000 双方の犠牲者数(通説)は武田側10,000、織田・徳川側6,000 圧勝と言われる割には織田・徳川側も犠牲者多すぎます それと何故か残されている武将の討ち死に場所の碑は、武田勢ばかり?? 長篠城趾、石垣も何も残ってません 丘の下、凹んだところ、堀跡ですか? 「長篠の戦い」歴史勉強が終わったところで、本日最後の観光「鳳来寺山」へ 鳳来寺と鳳来山東照宮がある鳳来寺山、東海地方有数の紅葉の名所、香嵐渓には負けますが 朽ち果てた? 廃屋? と紅葉 鳳来寺本堂、簡素です この鳳来寺、NHK大河「女城主直虎」の虎松(菅田将暉演じる)(後の井伊直政)が、今川氏の刺客から逃れる為に身を寄せたお寺さん コチラは、三大東照宮の一つ、鳳来山東照宮 (クリックで拡大します) 鳳来寺山定番ショット、小さな一本松の向こうに鏡岩と紅葉と緑、アングルが悪かったぁ (クリックで拡大します) 悔しいので、画像編集で明るさ調整 手前の小さな1本松、少し見えます (クリックで拡大します) 鏡岩ショットがだったので、雲海ショットでリベンジ (クリックで拡大します) 雲海その2 (クリックで拡大します) 雲海その3 宿のフロント (クリックで拡大します) 湯谷温泉の宿から、川の流れが 3日目23日、奇岩・渓流とアドベンチャーの乳岩(ちいわ)探索を予定していましたが、雨が残っていたので、滑落が懸念されたので取り止め 真っ直ぐ帰宅 ー 第71弾 名残りの紅葉? 美濃・三河 終了です ー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.11.30 06:43:55
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