東映動画『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』より「行こうよみんなのうた」楽譜など
東映動画『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』劇中挿入歌「行こうよみんなのうた」楽譜掲載 2024/03/08開始亡くなった三つ上の兄を思い出すことがかなりたくさんあるのだが、その一つに『音楽』がある。私が小学低学年の頃、これはまず初めに父のハーモニカが私を感化した。母とのいさかいが少なからずあり、母を懐かしく思い出そうとすると、勢い父の悪口の羅列ともなる。だがこの年へ来て、私の趣味あるいは少しうぬぼれて特技となると、俄然父のハーモニカがごく自然に思い出されるようになった。楽器の管理、寿命を考えると多分良くないことなのだろうが、父は風呂に浸かりながらハーモニカを吹いて聴かせてくれた。そう、父や母と一緒に風呂に入るのが、しばらくの習慣だった。また、兄と一緒に入ったこともある。兄弟一緒のお風呂。撮影はカメラを愛用していた父。ハーモニカを吹くのは身体中一通り洗って、湯船に浸かった時で、これものぼせる原因になるが、その時により、カラスの行水ではなかった。もちろん初めの頃は父が吹くハーモニカに聴き入ったのだが、不思議なもので、そのうち、小学中学年から高学年になる頃には、ハーモニカは私のものになっていた。人の吹いたハーモニカを汚いと思うのが普通なのかも知れないが、なぜか抵抗はなく、晴れて自分の所有物になったといううれしさもあり、今度は私が長風呂してハーモニカに興ずることとなった。ハーモニカは今でも趣味の一つ。上二枚は複音ハーモニカ、三枚目が半音ハーモニカ。この頃ハーモニカは学校の音楽の授業でも扱うことがあり、私は「誰でも出来る楽器」と勝手に考えていた。のちに、不得意またはほとんど出来ない人がいることを知ったが、未だに簡単な楽器との印象はぬぐえない。いっときはハーモニカを想う存分吹くために風呂に入るも同然というほど、ハーモニカが楽しみで仕方ないほどだったが、70代に入った今は、湯船に浸かることさえ億劫な時があり、シャワーで済ますことが多くなっている。本題からそれるので、委曲を尽くすことへのこだわりは捨てて、急いで書いてみる。音楽への興味をもたらしてくれたのは、今は亡き三つ上の兄である。兄は中学、高校と、これらの時期に、「行進曲」、「山岳歌曲」などに広く興味を持ち、普通のレコードは高かったのか、朝日ソノラマというメーカーが盛んに出していたソノシートという薄いプラ板のような材質のレコード盤を買って次第に増やしていった。記憶に間違いなければ、ソノシートは近所の書店に置いてあり、それもEPのシングルレコードとは異なり、どちらかというと、直径30cmのLPレコードに近い収録内容で、レコード盤そのものはコンパクトに収まっていたが、収録曲数が断然多く、それも本のようにまとまった書籍風のものに、何枚か、つまり複数枚のレコードが一冊の中にまとめられていて、行進曲つまりマーチならば、マーチ王ジョン・フィリップ・スーザやタイケ、ワーグナーなどの有名なマーチが見事にそろっていて、レコード・プレーヤーで聴けるから、何曲も聴いて存分に味わうことが出来た。光文社の月刊誌『少年』組み立て付録のレコードプレーヤーとソノシート。本物のプレーヤーで聴けたので楽しめた。のちの中学の吹奏楽部のマーチを聴くより早く、既に当時の有名な曲はソノシートで覚えていた。兄の音楽への関心度の高さは見事というほかなく、唱歌・外国歌曲・童謡・軍歌・懐メロ流行歌など、ジャンル分けの必要が不要と言えるほどだった。ポップスしか聴かないという狭さではなかった。メロディーが良いと感じたら、ジャンルを問わず片っ端から聴き入るようになっていったので、同じくハーモニカで曲を吹く趣味を持っていた私も、見事に感化された。兄の音楽への関心度で未だに驚異と感ずるのは、「日本民謡」にも強い興味を持ち、やはりソノシートで日本民謡集を買って興じていたことだ。中でも兄は「小諸馬子唄」をいたく気に入り、今や追憶と共に、私の好きな日本民謡となっている。分けても兄が凄いと思ったのは、劇場映画の有名な曲に敏感に反応したことだった。もっとも、当時は映画会社も作劇以外に主題歌に力を入れていたと思われるので、音楽への興味ひとかたならぬ者は、等しく興味をひかれたのかも知れない。中でも、当時『動画』、『漫画映画』と呼んで親しんだ「東映動画」の長編漫画映画は格別で、長編漫画一作ごとにほぼ必ずと言えるほど、印象に残る曲を随所に流して、私たちもごく自然に、主題歌や挿入歌を印象強く受け止めるようになっていた。早くも記憶がいいかげんなのだが、東映漫画映画公開年から、ある程度類推するしか方法がなく、そのようにつづってみる。御殿場に引っ越したのが昭和35年(1960)の夏休み中。父が自衛官だったのが理由だが、この御殿場市は、それまで住んだ富士宮市よりあかぬけているとはとても思えず、さらに僻遠の地に移るのかと思った。ところがカルチャー・ショックは引っ越し早々の夏休み中に訪れた。富士宮市の大宮小学校では、女子は普通の水着なのだが、何んと男子は局所のみ隠すといういわゆる越中ふんどしの水着をつけるというひどさで、胴回りなどはヒモと言うべきなほど細いヒモだけであり、今婦人が穿(は)いているティーバックよりもさらに過激なスタイルの水着だった。学校の方針に曰くの理由が実に面妖で、「貧しい家の子が海水パンツをはけなくて困る」からというのだそうな。では女子で貧しい家庭の子はどうなのか。実にくだらない規則があるひどい学校だった。さて、御殿場市に引っ越して早々にプール使用可能との情報がもたらされ、驚いたことに、母が既に海水パンツを買ってくれてあった。早速学校が備えているプールに行くと、実にカラフル ! 男女共に目の保養になるほど、様々な水着が目を射る。御殿場小は教育方針が充実していて、小学六年間に続くすぐ隣の御殿場中学での学習にスムーズにつながる高い指導内容だった。中でも感激さえしたのが『映画教室』と称する映画鑑賞の時間を設けたことだった。大きく二種類あって、業者の方々が映写機材共々、鑑賞に堪(た)える内外の劇映画を用意してあって、公会堂と呼んだ講堂で上映が行なわれた形のものが一つ。もう一つは、既に公開年を過ぎたかつての劇場映画を、学校貸し切りで街の映画館で上映して鑑賞させてくれたことで、何日か前から予定が知らされていて、その日は全日授業無しとまで行かなくとも、午前のみあるいは午後のみ映画に費やして生徒にいっときの娯楽を楽しませてくれた。映画館まで教師引率で徒歩で出かけて行った。多分その中には、公開時に映画鑑賞出来る時もあったかも知れない。私が転校して初めて見た漫画映画は昭和34年(1959)公開だった「少年猿飛佐助」で、これは御殿場小・御殿場中学共に同日か一両日のうちにたて続けに上映した。思えば娯楽に飢えてもいたかも知れない。「♪ 力よ力 雲に乗って来い 山の仲間は猿・熊・小鹿 オー 胸に友情瞳に正義 やるぞ負けずについて来い 僕は少年猿飛佐助 オー」の主題歌一番が、タイトルと共に流れたから、もう初めから大感激だった。なお断わっておくが、昨今のストーリー重視が当たり前となったアニメにしか感ずることが出来ない者どもは、このかつての東映動画は見ないほうが良い。昭和30年代の勧善懲悪の物語に意外性を求めるのは筋違いだ。さて。映画鑑賞の興奮を余韻としてみなぎらせたまま帰宅となる。同じく本作品を見ていた兄が改めて作品について語ってくれたような気がする。話術に長けた兄の話は、また一味違う感動を再燃させてくれた。第一、忍術使いの猿飛佐助の名を知らしめてくれたのはほかならぬ兄だった。兄はこれもまた父の自衛隊勤務のために、実に遠方の地、北海道は釧路近くの辺ぴな土地、別保(べっぽ)に引っ越すその時も時、大好きだった祖父の足に両手でがっしりと抱きついたまま、上野駅のその場から動こうとせず、遂に根負けした両親が幼い私だけ連れて汽車に乗るという一大事があったほどだった。兄とは数年後、富士宮市の自宅で再会となるが、懐かしい思い出だ。この祖父が大日本雄辯会講談社(現・講談社)が無償で発行した講談本所収の話に通ずる様々な物語を、幼い兄にほぼ毎晩聞かせてくれた。さよう、かつての年寄りはオートバイになんぞ乗らない、というよりそんなもの存在しなかった。真田十勇士を列挙出来たのは当たり前で、祖父は講談に名高い英雄豪傑、妖怪変化の物語を幼子に語り惹き付けることが楽々出来たのだ。そんな祖父の感化よろしきを得てか、兄は古往今来の古典に明るかった。話術も見事だった。例えば私の小中学時代に忍者漫画がはやった時期があるが、兄は「忍術というのは、今はやりの忍者が苦行の果てに体得した現実的な技ばかりではない」と話し始めた。週刊誌で少年サンデーが人気があり、その中に掲載の「伊賀の影丸」という忍者漫画がヒットしていたが、兄は影丸のかぶる頭巾の不自然さを早くから指摘していた。影丸の頭巾の横からとがった妙なものが突き出ているとの指摘で、これはその通りである。ただしそんなことを言い出したら、漫画史上に名高い「鉄腕アトム」の頭のとがった髪の毛も、極めて不自然に見えるから、これをむきになって非難したら名作漫画がそうでなくなるおそれもある。兄の頭の中にあったのは、かつて子供らの心をとらえ続けた『忍術使い』であり、その術は『忍術』であり、忍法ではなかった。三すくみの原理も巧みに取り入れた『忍術児雷也』を知る世代の人ならば、全面賛成は出来なくても、言わんとするところがわかって下さると思う。兄たちを興じさせた忍術とは、言わば『妖術』であり、難行・苦行を乗り越えるところは同様なれども、免許皆伝の暁には、九字を切るだけで炎を呼び、嵐を呼び、逆巻く波を起こして、見る者を熱狂させた。話はやはり長くなったが、「少年猿飛佐助」が使ったのは紛れもなき妖術だった。だから迫力があってわくわくしたのだ。手裏剣をピシピシなどと投げてなぞいない。「えいっ ! 」との気合いもろとも様々な天変地異を起こして、敵味方共に妖術合戦を繰り広げた。これでは「少年猿飛佐助」の話になってしまう。何しろ楽譜などは基本も何もわかっていない身でテキトーに書くものだから、「少年猿飛佐助」も出来ればいずれ楽譜にしてみたいと思い続けているが、完成譜面の整然さは、望むべくもない。とにかく、数多くの歌謡曲などの楽譜がフリー素材としては存在しない事実がある以上、多少の見づらさは無視してでも、曲がりなりにも『音階』を目で見られる楽譜という形にしたい一心で掲載するものである。この機会にひとこと書いておく。楽譜を金をとって提供するなぞといういやしい商売なぞするな !さて、昭和37年(1962)公開の東映長編漫画映画『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』の劇中挿入歌『行こうよみんなのうた』のただしかなりテキトーな楽譜を掲載してみたい。なお、今回は今までの楽譜作成練習結果を、その都度チェックしてくれていた「ユコタン」こと相棒の夕子殿の、昨今の仕事多忙に配慮して、完成後ごく大ざっぱに確認してもらうにとどめた。これまでの楽譜は、彼女が入念に確認してくれて、現に私の音階の明らかな間違いをも見つけて訂正してくれたこともあったので、安心していられたが、こちらはあくまで趣味なので、今回は「音階」のみに絞ってみていただいた。本作品の「行こうよみんなのうた」は、動画作品中で流れる歌、さらにはかつて販売されたCD全集『東映動画アンソロジー』に収録されたデニー白川氏の歌それぞれに、歌い方の異同があるのだが、ここは思い切ってDVDに流れる『行こうよみんなのうたII』に絞って楽譜作成してみた。蛇足的な話の最後として、この『行こうよみんなのうた』も、私自身、教師引率で街の映画館で見た印象が強烈で「東映動画はいい歌を作るなあ」と、これも興奮さめやらぬ鑑賞後の思いのまま帰宅したところ、三つ上の兄が「シンドバッド良かったなあ。日本の娯楽のいいところはな、我が国の神話、説話はもちろんのこと、世界中の名作を惜しげもなく作品として作ることだ」と言った。兄はその思想既にある意味『保守』であり、それでいて、巷間「名作」と言われる映像作品などは、国家主義――資本主義・共産主義を問わず、いいものを「いい」と認めるにやぶさかでない柔軟さがあった。弟ながら、憧れ、尊敬するのも当然と思うゆえんである。そして、こういう優れた考えを持つ者ほど、天はその生命を早くに絶ってしまうものだとさえ思える。兄はとどめというべきことを言った。「今度も映画の中に流れるシンドバッドの歌がいいなぁ」。こう言って、実に一回見ただけの漫画映画の劇中挿入歌を、ワンコーラス歌いきって聞かせてくれた。それが『行こうよみんなのうたII』だった。いよいよ最後に。我が国音楽界の重鎮と言える音楽家の湯川れい子さんは、当時歌唱のデニー白川氏を評して「ナット・キング・コールそっくりのハスキーな優しい声で、非常に人気があった。言葉遣いが丁寧で、礼儀正しく、慎み深かった」とおっしゃっていた(ウィキペディアから抜粋)。「行こうよみんなのうたI 」この海の底には 神秘があるんだその波の下には あこがれがある行こうよみんな 行こうよみんな月の光の中に 星の影の中に魔の海の幽霊船に現われたたくさんの亡霊に向かって、シンバッドは静かにギターを奏でて「行こうよみんなのうた」を聴かせる。すると、これが霊たちへの鎮魂歌となり、一つまた一つと消えて、とうとう海は明るさを取り戻す。名場面である。「行こうよみんなのうた II 」あの空の下には 幸せがいっぱいあの雲の果てには 希望がいっぱい行こうよみんな 行こうよみんなあの空の下まで あの雲の果てまで『行こうよみんなのうた』作詞 米山正夫氏 作曲 冨田勲氏 歌唱 デニー白川氏〇補足〇この『行こうよみんなのうた』は、劇場公開版と言うべきか少なくともDVDでは、途中から見事な女声スキャットが流れて、歌の品格を高める工夫がなされている。具体的にいうなら、『行こうよみんなのうたII』の「♪希望がいっぱーい」の「望」のところからハッキリと女声コーラスのスキャットが流れて、歌の完成度を高めている。